令和6年2月21日

俺の本棚~面白いッ書 第663回

S女史に、この日に割り勘で一献如何か?とメールしたが、新しい勤務の予定が決まらないので少々お待ち下さい、と返メールがあった儘、前日になっても当日になっても追加メールがなかった。 そもそもが、S女史の方から新しく転職します、と知らせて来たから、割り勘でゆっくり話を聞かせてくれ、という流れであったのに、何があったか知らぬが、不誠実な対応に正直ハラが立っている。 何故、返答がないのか、糾す気にもならぬ。 いつの日か、どう挨拶されるのか、怒り穏やかに待っていようか。 それにしても小料理Sを喰い損ねてしまったなァ。

 

PGA松山の優勝(400万ドル・6億円)の生放送テレビはBS・263チャンネル(ジャパネット)であり、どうすればチャンネルを併せられるのか分からなかったが、録画は出来た。 だから、録画で観る事が出来ているのだが、凡その人は、恐らく知るまい。 OさんにもMにも、教えてあげるよ、とメールしたが食い付きが無かった。 ネットと違うテレビでの迫力、世界のトッププレーヤーの技は魅力充分なのである。 この生放送は見逃す訳にはいかない。 

 

 

佐伯泰英「芋洗河岸① 陰流苗木」(書き下ろし文庫)

神田明神下にある「一口(いもあらい)長屋」の差配・義助は、大荷物を入れた竹籠を背負った、背丈六尺余りの若侍と、赤子を背負った妻女から尋ねられた。 →我らが住めるような借家をご存じないか? →九尺二間の裏長屋ならあるから見てみるかえ、との問答のなかで、喰い詰めて美濃の国から二年を掛けて江戸にたどり着いた、途中で赤子も生まれた、と説明されて長い歳月の意味がわかった。 →たな賃を半年も払いやがらねエし、毎晩のように飲み食いの贅沢をしているくせにだ、丁度、そいつを叩き出してひとつ空いているぜ、と長屋に案内した。 若侍は、小此木(おこのぎ)善次郎、26才、妻は佳世、赤子は芳之助にござる、と自己紹介した。 昌平橋から坂を昇って行くと、中々、凝った造りの長屋が見えた。 右手の崖下には江戸の街並みが望めた。 イイ場所にある。 狭い庭の一角に井戸端があって数人の女たちが提灯の灯りの下で夕餉の支度をしていた。 昌平橋の上流に芋洗河岸があって、昌平橋も芋洗橋という異名で呼ばれており、この長屋もその名残だろう。 →おい、おっかあ、このお侍さんが空いてる部屋を見たいとよ、と声を掛けると、ひと際年輩の四十位の女が、→あいよ、灯りがいるね、と立ち上り、灯りを用意して部屋に向かった。 小奇麗な部屋だった。 すぐ赤ん坊が泣き出した、→部屋に上がって乳を飲ませナ、奇麗に掃除をしてあるし寝具もあるから今晩からでも泊まれるからね、と義助の女房・吉が優しく言った。 間もなく一年になる赤子だ、と善次郎が井戸端のおなご達に言い訳していた。 更に善次郎は義助に、→小此木家は代々、藩の剣術指南を務めておってな、剣術は陰流苗木と無双流抜刀枝の師範を受け継ぎ、それがしも幼いころからとことん叩き込まれた、江戸へ途中、妻の懐妊を知り、子が生まれて稼ぎが足らなくて、一回だけ道場破りで十両の金子を稼いだ、その残りが三両二分である、と有り金全てを差し出した。 半金弱で半年分のたな賃として頂く、と義助は残りを返してくれた。 この二年間も、未明に一刻以上は剣の稽古を続けてきた、こちらの庭でも稽古を続けたい、差し支えなかろうな、と念を押していた。 そして、義助が願ったら、蝋燭の火を使った無双流抜刀術を見せられて震え上がった。 毎日の稽古をしてきたのは嘘ではない、こりゃ、タダものじゃない、と胸に刻み込まれたのである。

 

翌夕、長屋の差配・義助方に長屋中の住民が集まって、小此木の一家の引っ越し祝いをしてくれた。 店子は全部で五組、植木屋の奉公人・登、屋根葺き大工・八五郎、神社の男衆・大助等々、小此木と同世代だった。 歓談賑やかな時に、追い出された助八が乗り込んできた、→義助、俺は引っ越した覚えはねエ、と言って匕首を板の間に突き立てた。 →竈の灰の下に隠していた八両入りの巾着を返しやがれ! →勝手な言いがかりを言うな! 半年分のたな賃二両を払わずに長屋から逃げ出したくせに何を言っている、お前が逃げたアト、御用聞きの左之助親分に立ち会ってもらっている、なんならここに呼ぼうか、と反論すると、善次郎が、→義助さん、口を挟んで宜しいか、連れのお二人にお尋ねしたい、助八のお仲間とは思えんでナ、助八はそなた方にも迷惑をかけておるのではないかナ、と問うと、→俺達は賭場の用心棒でさ、助八が負けが込んで巾着を忘れたと言い出しやがったのサ、どうやら虚言らしいナ、帰り道によ、突き殺して神田川に投げ込むサ、と言った途端、助八は八五郎の二才の娘・かずを引き寄せて匕首を当てた、→義助、金を出せ、まむしのアニキ、この娘の首をかっ切るぞ、おとなしくしナ、と凄むも、善次郎が大刀を手に飛び上がると助八の喉首を突いていた。 ぐェ!と呻きながら土間に転がった。 →このバカは連れ戻す、お侍、並みの使い手じゃないナ、小此木善治郎さんかえ、また会いそうだナ、とまむしの源三郎と手下が助八を引き摺って行った。

 

翌日、佳世は差配の女房・吉に連れられて、味噌醤油、油、八百屋、魚屋、雑貨屋を案内して貰った。 →長屋にお侍さん一家が住まいするのは初めてだね、このご時勢、イイ用心棒がいてくれて良かったじゃないか、と八百屋の主が言うもんだから、昨夜の善次郎手柄の、吉の自慢が始まった。 すると、→じゃ、たな賃どころか、用心棒代を支払わなきゃね、と釘を刺される始末だった。 アトは米屋は長屋の持ち主の米問屋・越後屋さんから義理でも買うしかないよ、と最もな事を言われて帰宅すると、丁度、義助が善次郎を連れて越後屋に向うところだった。 途中の神田明神は江戸の総鎮守様、立派な社に拝礼して賽銭を入れる。 米問屋越後屋は堂々たる店構えだった、古稀を過ぎた大番頭の孫大夫さんに挨拶をしながら、助八が滞納していた内の一両三分を差し出した。 →こちらの小此木の善次郎さんから前払いで頂いた金子です、と紹介する。 すると屋根葺きの八五郎が丁度ここの修繕中で、既に、娘・かずが助けられた報告をしていたらしく、→小此木様、お住まいになる早々、真にお手柄でございましたナ、八五郎が随分感謝しておりましたぞ、どうぞ、奥座敷で主に会うてくだされ、と案内してくれた。

 

九代目嘉兵衛は三十五~六か、眼差しが爽やかだった。 まむしの源三郎が口にした、→この一口長屋の大家に曰くがあってな、序に長屋を見に来たのさ、また会いそうだな、小此木さん、との言葉を聞いていた義助がその旨を報告すると、顔色が険しいものに変わった。 →う~ん、異母弟の次郎助の事は義助さん以外には洩らしていませんね、と念を押している。 →小此木さん、我が家の恥を申しげておきます、十一年前に面倒だけを遺してさっさと親父は彼岸に旅立ちました、外に芸子の玉子を囲っていたのです。 孫兵衛が続けた、→玉子の懐妊が判った時、私は先々代に命じられて、腹の子を堕させる事を約して玉子に三百両を渡しました、船宿の主も立ち会って受取り証文も取ってあります、処が先代は秘かに玉子と会い続け、気付いた時には次郎助という名の息子が九つになっていました、更に、先代は新たな証文で越後屋は嫡男が引き継ぐ、次郎助には財産の三割を分与する、と認めておったのです、越後屋の文箱から見付かりました、先代が身罷ったアト、玉子は二股を掛けていた男と逃げました、当の書き付けや次郎助も未だ行方が判りません、只、先代が身罷る寸前に財産の事を口にしたのは、→一口長屋を次郎助に分け与えたいとだけで、何も決まらない儘、突然身罷ったのです、先代自らが自分の子と認めていましたから、世間体を考えたら無下な事は出来ません、と主従が難儀な顔を見合わせた。 孫兵衛は、→三百両の他に次郎助が生まれてから七百両もの金子を与えております、これだけで三割以上は充分にあります、更に長屋には三百坪の土地の広さがあります、小此木様、何としても長屋を守って下さい、と願われたのだった。

 

まむしの源三郎の親分は、野分けの文太親分である。 明神下で総二階の「旅館かんだ川」は表の商いとして女房・彩にやらせていた。 旅館の奥路地で夜な夜な賭場が開かれていた。 文太親分が不在、年増の色っぽい彩が対応してくれた。 既に、善次郎の腕っぷしはまむしの源三郎から聞き及んでいたらしく、話は続いていた所に、まむしが顔を出した。 同行してくれた義助さんが、→親分に小此木さんの稼ぎどころがないか、お願いしてください、と頼み込んで受け入れてくれた。 善次郎が、この近辺に道場はありますか?と尋ねると、そこもとの腕なら神道流青柳七兵衛様の道場が良かろう、俺が連れて行ってやろう、と案内してくれた。 見所を入れて三百畳程の広さに三百人近い門弟らが稽古している光景が見えた。 三人は道場の隅っこに控えた。 すると、おお、源三郎か、久し振りじゃの、と声が掛かったのは、筆頭師範の財津惣右衛門で、以前から顔見知りらしく、まむしは善次郎を紹介してくれた。 更に老武芸者が寄ってきて、それが当主の青柳七兵衛だった。 陰流苗木も抜刀術も見たいものよの、と言われて、筆頭師範は、十指に入る壱場祐次郎との竹刀稽古を命じられた。 神道流、おのずと見よ、と気負った壱場であったが、善次郎に見事に胴を抜かれて横っ飛びに吹っ飛んでしまった。 義助は筆頭師範に願うと、客分師範として通ってくれたら稽古代どころか、少しの指導料(月に一両二分)を払えよう、と快諾された。 長屋に帰ると、明日、越後屋から呼び出しがあるという。

 

翌早朝、道場稽古には既に百人以上の門弟がいた、筆頭師範の指名により、能勢右京という三十年輩と引き合わさせられせた、4~5才若い善次郎に対しても腰が低い、好感の持てる御仁だった。 ひとしきり打ち合ったアト、筆頭師範が道場主と打ち合わせると、夢想流抜刀術を拝見出来ぬか、との申し出である。 懐紙を能勢殿に散らせて床に落ちる前に散り散りに刻み、まるで吹雪が舞うような見事な抜刀術に見惚れて、慄いた道場の面々であった。 一旦長屋に帰り、越後屋に一人で向かった。 呼ばれなかった義助が名残惜しそうに見送っていた。 大番頭が取り立てに行くお供であった。 昼餉をご馳走になり、表高家六角様のお屋敷に向うという。 取り立てた借財の五分を手当とする、と言われるから百両なら五両が懐に入る勘定である。 若侍がさっそく、→越後屋、本日は高家主も用人も多忙である、又にせよ、とあしらうが、お目に掛からねばお店に戻りません、と強引に敷地へ入り込んだ。 →何を為すか、商人の分際で非礼を働くと為にならぬぞ、と言いながら出てきた三人はとても高家家臣と思われぬ剣術家如き風体だった。 善次郎は、門番が持っていた六尺棒で立ち向かう。 刀を抜いて襲い掛かって来た三人を次々と叩きのめすと、→御用人様、本日は六百三十両、一文も欠ける事無く頂戴してまいりますぞ、と大番頭は証文をヒラヒラさせたのだった。 ・・・小刻みに値切られたが、最後には六百両をせしめる事が出来た。 何と、三十両もの大金が善次郎の取り分である。 これだけで一年間は優に暮らせる大金である。 善次郎は越後屋主人に訴えた、→それがし、三十両もの途方もない大金の稼ぎを働いた覚えはございません、我ら一家、長屋に住ませて頂き、一家三人の暮らしが立てばそれでようございます。 九代目嘉兵衛は爽やかに笑って、→大番頭さんの約定は越後屋の約定、キッチリ守らせて頂きますよ、と預かり方式を提案したのだった。 

(ここ迄、全325ページの内、137ページまで。 青柳道場の客分師範の指導料に加え、取り立て両の五分、と稼ぎが入ることになった。 更に、まむしの野分親分、神田明神様、と稼ぎが広がって行く、美濃では考えられない江戸の町の仕組みである、これも剣術の稽古を怠らなかったお陰である、第二巻では、更に稼ぎが増えていく、全ては安静の世になって、真の剣士が少ないご時勢なのであったのが大きな理由であった)

 

(ここまで、5,000字越え)

 

令和6年」(2024年)2月21日(水)