令和5年(2023年)8月30日  第634回

原宏一「ヤスの本懐⑥」(ヤッさんシリーズファイナル)

・・・第395回に、「ヤッさん②神楽坂のマリエ」がUPされています。 しかし、その前に第306回に「⑤春飛び娘」もUPされています。 それを先にご覧下さい(②→⑤の順に) ①はyahoo時代のブログにUPされていると思うが、「③築地の門出」も、「④料理人の光」も、ここにUPされていない。 それなのに2014年刊の「②神楽坂のマリエ」が、何故か、7年後の2021年2月・第395回にUPされており、2019年刊の「⑤春飛び娘」は即、第306回にUPされている。 だから、2015年刊の「③築地の門出」、2016年刊「料理人の光」も即、yahooでupされていると思うが、このブログは2019年からが始まりである。 ②がどうして7年後にUPされたのか、我れながら不思議である。 思い出せない。

 

 

第一話 マリエの覚醒

銀座駅の階段を早足で駆け上り歩道に踏む出した瞬間、左足のヒールが折れて転んでしまった。

8年前と全く同じである。 あの時は、近くで走っていたヤスさんにお姫さん抱っこされてから、ヤッさんの秘書として、矜持ある宿無し生活で鍛えられた1年2ヶ月後、一文無しになって破産させた神楽坂の「マリ・エ・カフェ」を、再度、新店オープンすることが出来た命の恩人であった。 ヤッさんの弟子時代に恋人になった板前のノルウエー人のヨナスと結婚もし、20代半ばの佳奈も雇って前途洋々の日々を送っていたが、コロナショックで佳奈を雇いきれなくなった。 しかし、ヤッさんに発破を掛けられて考案した「鯖サンド」が大ブレークして佳奈も呼び戻せる事も出来た。 更に凄い話が舞い込んできた、銀座の老舗「丸東百貨店」のバイヤー・高柿課長から鯖サンドの味を少し変えて、グルメフェアで売ってみたい、と夢のような申し出であった。 そもそもは、コロナショックで売り上げが減少し、それを補う為に少しでも店に長く居て頑張って寝泊まり迄していた時に、ヤッさんが、今こそ攻めのタイミングだ、必死に何か考え出せ!と怒鳴りつけられた事がスタートだった。 イスタンブールの港に係留されている屋形船、そこで髭面の男達が鯖サンドを作っている。 大きな鉄板で焼いた鯖をレタスと玉葱と共にトルコパンにひょいと挟み、塩とレモン汁をさっと振って、買った観光客は幸せそうに頬張っている動画だった。 ヤッさんの協力を得て、鯖は「カネマサ水産」の正ちゃんから、トルコパンは「タキモト」の滝本さんに、練りに練った試作品を、最後に「トルコ料理店」のデミルさんに試食願う、→これ、美味しい、トルコ人も喜ぶね、お世辞じゃないよ、とお墨付けを貰い、ヤッさんも新大久保のオモニも、→よし、こいつで攻めてみろ!と気合を入れられて拘った分、少し高めの値段だったが、瞬く間にブレイクしたのだった。 一ヶ月もしないうちに休日には行列が出来るまでになり、佳奈を呼び戻し、20才の千夏も雇い入れで、Ⅴ字回復したのだった。 しかし、高柿課長から予想外の難題を突き付けられた。 頭を使って食材も吟味して、味を変えた二回、三回の試作品がどれも却下されたのだった。 グルメフェアには絶対出て、マリエの名を高めたい一心だった。

 

夫のヨナスは、「板前割烹くらがき」の脇板までになった。 一年後、親方の承認済みで独立する予定で身辺が忙しい。 マリエは、グルメフェアに出す鯖サンドについて、要求された内容を相談した。 メインのお客様は中高年が多いので、皮が柔らかく甘いパン、癖のあるハーブは外す、と高柿課長の要求だった。 ヨナスは、→神楽坂まで来てくれて行列してくれる人が大勢いるのに、簡単に味を変えちゃうの? 本場の味じゃなくなったって騒がれてお終いだよ、下手したら店が潰れるよ、と忠告されたが、マリエは、→でもバイヤーさんが助言してくれた味に変えれば、もっと好きになってくれる人が増えるかも知れないし・・・、と未練タップリである。 ヨナスは断言した、→じゃ、今迄のお客は見捨てて、バイヤーの言う通りのまるで違う店にしたらイイ、マリエが決断する事だね。 マリエが儲けに拘る秘かな理由があった。 先ず、ヨナスの独立資金が少ない、外国籍のヨナスには融資審査が厳しい、もう一つは未だ確認していないがマリエはヨナスの子を妊娠している。 産科医院でハッキリしたらヨナスに告げる積りだが・・・。

 

良く早朝、マリエは豊洲市場にいた、前夜、新大久保のオモニに訊くと、恐らく豊洲にいると教えて貰ったのだ。 ヤッさんは「川上水産」に居た。 グルメフェスタ、味変、ヨナスの独立資金等々、包み隠さず相談したが、ヤッさんは、→いちいちおれを頼ってねえで好きにすりゃイイ、ヨナスは一人前だ、奴の道は奴が切り開くサ、お互い自立していかなきゃ共倒れになる、ほっときゃイイ、とふんと鼻を鳴らした。 →あのナ、おめえの正解はおめえが見付けるしかない、いいかげん、自分の頭で考えろ!と怒鳴られて相談は終った。

 

新橋の小料理屋「からす」の加寿子ママはマリエの愚痴を聞いてくれる有難い存在だ。 マリエカフェのランチの常連客・万智子さんもいて、→最近、ランチの味がばらついてるから何か心配、と言われてしまった。 鯖サンドの試作品が続いていて、佳奈と千夏にも何回も試食してもらっている。 マリエが店を空ける日が多く、そんな状態が二人の気の緩みがあるのかも知れない。 試作品は又もダメ出しを喰らった。 その理由を高柿課長は明かそうとしない。 始めは揉み手をせんばかりの出店依頼だったが、本音はつべこべ言わずにいう事を聞け、銀座に出店させてやるんだぞ、とばかりの態度である。 端っから舐められていたのだ、と悟ったマリエは急に馬鹿馬鹿しくなった。 こんなことに振り回されて・・・

 

酒は断わってお茶を飲みながら、加寿子ママに愚痴を言ってた時に、つい、私の体の事もあるし、と口を滑らせてしまい、突っ込まれて、ヨナスより先に打ち明けてしまった。 途端に加寿子ママは目を剥いた、→アンタ、まさか産みたくないと思っているのかい、と図星を差されてしまった。 →莫迦な事を考えてるんじゃないよ、どんなに追い込まれても命を粗末にする権利はどこにもないし、絶対に赦されないからね、とテーブルを叩いて叱りつけられた。 →私はネ、若い頃の過ちで流産しちゃったの、それっきり子供が出来ない体になってしまった、世の中には産みたくても産めない人がいるし、折角授かったあんたが産んで上げなかったら、かけがえのない命にも、彼女らにも申し訳ないでしょうが!と嗚咽交じりの声で叱責が続いた。

 

翌朝、佳奈が、→今日は早退させて下さい、そして来月末で辞めさせて下さい、夢が持てなくなりました、と申し出られて絶句した。 佳奈に辞められたら店が廻って行かない。 決然とした眼差しから慰留は難しそうである。 そこに丸東百貨店の槙野美和がやって来た。 この子が鯖サンドに惚れて高柿課長に上げてくれたそうなのだが、今、難所に乗り上げているのはサブ担当者として承知の事であろう。 →今日は休みなので、マリエさんとお話がしたくて参りました、と言いながら、鯖サンドにかぶり付き、あ、美味しい、やっぱりこの味ですよね、と納得している。 →あたし、納得いかないんですよね、鯖サンドはこのままでイイと思います、高柿が自分の成功体験をマリエさんに押し付けたから、すっかり混乱してしまってあんな味になっている、折角の鯖サンドを台無しにしないよう、個人的にマリエさんを応援したいと思ったんです、と言う。 →二人で此の儘の味を高柿に認めさせましょう!と意気軒高に唱えて帰った。 

 

翌日、午前中半休のメールを千夏に出し、出勤してきた佳奈と話し合った。 →佳奈ちゃんはかけがいの無いパートナーなの、だから本音で話し合いたい、最近の反省も込めて・・・と切り出した。 グルメフェア、高柿課長との確執、ヨナスの独立問題、妊娠の事も包み隠さず打ち明けた。 すると、堰を切ったように佳奈が言い出した、→最近のマリエさん、嫌いになりそうです、この店はもう、マリエさんだけのものじゃないんです、常連の最近離婚した万智子さん、ここに来た時だけ素の自分になれる、って、そんな方々がこの店を支えていてくれてるのに、デパートの言いなりになって折角の鯖サンドを台無しにしちゃったら、ガッカリする人がいっぱいいます、これがマリエさんの正体だったの?って思ったから辞める決意をしたんです。 マリエは涙を流して佳奈に謝罪した、→佳奈ちゃん、ありがとう、本当にありがとう!

 

その夜、帰宅したヨナスにエコーの写真を見せて、→出来ちゃった、赤ちゃん、と言った途端、飛び上がらんばかりに、→マリエ!と抱き付いてきた。 そして、→僕には貯金がある、くらがきの親方が給料天引きしてくれていた、全然知らなかった、そして、融資の時は倉垣親方が保証人になってくれる、全部、ヤッさんが始めから裏で親方を説き伏せていたらしい、と驚きの話も飛び出した。  ・・・気が付かなかったがオモニから携帯が入っていた、深夜2時だったが掛け直したが繋がらない。 ヤッさんの事も聞きたかったので、翌朝、何度も掛けたが繫がらなかった。 何か、あったんだろうか? 豊洲市場でヤッさんを捜したが何処の仲買店にも居ない、すると、水産棟の駐車場から出ていく大型トラックの助手席にヤッさんの姿を見付けた。 ヤッさん!と叫びながら駆け寄ったがタッチの差でみるみる遠ざかってしまった。 もう、頼りにするナ、という無言の決別のような気がして、ガックリと意気消沈したマリエだった。 

 

槙野美和から、→高柿課長から脅しが入りました、俺の意見に反対なら試食の席を外せ、契約社員の分際で思い上がるナ、と言われたので、それはパワハラです、と抵抗しましたが直も脅かし続けるから、こんなとこ、あたしから辞めますッ!と啖呵を切ってしまいました、すみません、お力になれずに・・・、と言うではないか。 そもそもが美和が鯖サンドに惚れて上に上げたのに、高柿課長が自分の手柄にしようと横取りしようと画策を始めたのが、何度かの試作品であった。 マリエはハラを括った。 そして最後の試食会で高柿課長と闘うのだった。 

 

マリ・エ・カフェのオリジナルのままお持ち致しました、これがウチの鯖サンドです、これ以外はあり得ない、という結論です。 高柿課長がキレた。 →舐めてんのか! 馬鹿かおまえは! これが最後のチャンスだと言ったろうが! 最初の頃の揉み手をせんばかりの態度をゴロッと変えて、大会社の横暴丸出しである。 →ああ、そうですか、じゃ、引っ込めます、ウチの味は変えません、こっちから願い下げです、槙野さんの退職は存じております、優秀な人材を失って心からお悔やみ申し上げます、と皮肉を込めて会議室をアトにした。  後ろから高柿課長の罵声が飛んで来たが知っちゃいない、寧ろ、清々しい。 今日は最初から断わる積りで乗り込んで来たのだった。 佳奈にも確認すると、→勿論です、と笑顔で見送ってくれた。 いつにない高揚感で槙野美和との待ち合わせ喫茶店に向った。 →ビシッと突っぱねて来たわ、美和さんのお陰で自分の店を失わずに済んだ、と感謝しています。 美和は、元々食べる事が好きで高卒後、丸東百貨店の地下惣菜店のアルバイトに入り、4ヶ月後には売り上げトップとなり、半年後には地下食品街全体の売り上げトップに押し上げる立役者となり、食品企画室の課長の目にとまって契約社員となったのだった。 間もなく課長が交代して高柿課長となった経緯があった。 高柿は食べ物って手柄を立てて昇進する為の道具で、食いしん坊のお客さんを喜ばせる気持なんてこれっぽちもありません、酷い上司でした、口惜しいけれど悔いは一切ありません、と晴ればれと言い切った。 マリエは誘った、→デパートに出すより、姉妹店を出す事にしたの、神楽坂は佳奈ちゃんと千夏に任せて、美和さんと私が理想の新しい店を模索するの、どう、一緒にやってみない? 部下は上司に恵まれず、職を賭して自分の意思を貫き通した美和にマリエは心から尊敬したのだった。 →面白そう、うん、すっごく面白そう! 美和は声を張り屈託のない笑顔を見せた。 翌朝、携帯が振動した、加寿子ママだった。 昨日の経緯を報告すると、→良かったわ、流石ヤッさんの愛弟子ね、実はね、ヤッさんが来て、マリエを凄く褒めたアト、マリエが愚痴を零しに来る筈だから聞いてやってくれ、おれはもう関わってやれねえから加寿子ママが支えてやってくれ、マリエにはもうおれは必要ねえ、と頼まれていたの、と急に冷たくなったヤッさんのウラからのフォロー振りを知らされた。 見捨てられた訳ではなかった。 それにしてもヤッさんは何処へ行ったのか、おまけにオモニにも連絡がつかない、二人一緒に居なくなってしまった? 何か、あったのだろうか?

(ここ迄、全284ページの内、96ページまで。 第2話、第3話ともこのアト、続けたい)

 

(ここ迄、約5,400字)

 

令和5年8月30日(水)