令和5年(2023年)4月14日  第606回

昼時の5人の蕎麦は話が弾んだ。 それぞれの元会社の若い世代の人事や、OB仲間の現状報告である。 90分も居座ったのだが店からは特にクレームは無かった。 難病のHさんは痩せて かつ、眉毛が白くなっていたが、元気であった。 同期のMが、以前のメンバーのアト2人に携帯で報告すると、今月中に懇親会をやる事が即決し、Hさんも出席するという。 酒を飲むのは本人の責任だが、それにしても4年振りの懇親会の復活である。

 

Oさんから新刊2冊借用、中山七里「殺伐の狂詩曲(ラプソデイ)」、柚月裕子「合理的にあり得ない②」である。(①は第329回にUP済み)  ・・・村上春樹の新刊が2,970円と言う。 道新の1面の右欄に掲載記事の見出しがあり、かつ、2面の下段に新潮社の広告、24面に紹介記事がある。 ホントに爆発的に売れるんだろうか? 以前、前評判が高かった1987年発刊の小説を買った事があるが、内容に失望してからはその後一度も買った事が無い。 世界的作家と評価が高いが・・・。 その後はU内科から2~3冊借用したが、それを読んでも買う気は起きない。 この作家はOさんも買わない。 テレビで発売日の長蛇の列も見たが、我らは世間の常識から外れているのかも知れない。

  

 

河崎秋子「土に贖う」(前回605回の続き・・・)

明治を30年を過ぎた札幌の一角、12才のヒトエは蚕が桑の葉を食んでいる音が好きだった。 ざざ、ざざと言う音は、「おかいこさん」が元気に育っていてくれると安心する。 父・善之助は、→おかいこさんを育てるにはな、桑に始まって桑に終るんだ、どんどん大きくなって良い糸を沢山出してくれる、その繭のお陰で人間は美味しいご飯を頂ける、と優しい声で言うのが口癖だった。 もう三度も脱皮を繰り返した繭はふっくらと肥り、アト一度脱皮をして熟蚕となったら立派に繭を作り始める。 真っ白な糸が吐き出されると、ヒトエはその仕組みの不思議さに驚くのだった。

 

春先の桑の葉摘み、使用人に混じってヒトエも勤しむ。 養蚕に使う蚕は人間が改良を重ねた昆虫であり、自然界にはいない。 北海道には野桑はふんだんに生えていた。 幕末に北海道に立ち入った和人達は、この幅広な木の葉を有効に使って銭を稼ぐ方法を思い至る、それが養蚕だった。 当時、生糸は輸出品の主力であったから、政府の肝いりで人と財が注ぎ込まれ、多くの技術者が送り込まれた。 ヒトエの父もその一人だった。 愛媛の松山で蚕の研究に勤しみ、東京の養蚕施設で学んだあと、明治政府に乞われて北海道に渡ったのである。 開拓使の元で「積誠館(せきせいかん)」という蚕種所を作り、苦労の果てに成功して所帯を得た、妻・ヨシエとの間に5才上の兄・壮太郎とヒトエの二人の子供がいる。 広い敷地に桑畑と住宅を兼ねた大きな作業小屋を有し、人も多く使い、蚕と共に日々の暮らしがあった。 蚕は一般農家にも販売し、最近では生糸の生産も始めている。 徐々に規模が拡大し、札幌の発展と呼応するように繁盛振りを見せていった。

 

朝霧が陽光を帯びる頃、背中に籠を背負って桑の葉を摘む。 積誠館で働く二つ上の信代と言う少女が、おはよう、と声を掛けてくる。 父親を早い内に亡くし母親とここで働いていた。 ヒトエには姉のような存在だった。 →甘くて美味しい桑の実が待ち遠しいわ、と二人の会話である。 野桑が足りなくなって本州から桑の苗を持ち込んで、今は本格的な桑畑となっている。 一枚、一枚、丁寧に重ね合わせ、大きな包丁で刻んでいく、とんとん、ざくざくの音と青い香りで作業小屋が満たされていく。 決して芳しい訳ではないが、嗅いでいると体の隅々まで浄化、活性化されるようだった。 小さく切り刻むのは、毛蚕(けご)と呼ばれる幼虫に与えるからである。 古参の従業員は、蚕が桑を食べる音を、「金がじゃりじゃり鳴る音に聞こえる」と笑う。 父は、選りすぐった成虫を羽化させ、卵を産ませる、その繁殖を促し、蚕種を作って各地に送る、という大事な仕事だった。 一回に500個程の卵を産み、鋭い観察力と集中力が必要な作業を、父は根気よく熟していた。

 

おかいこさまの腹を満たしてから人間の朝飯は始まる。 父と母、兄と自分、従業員の賄いより少しだけ豊かな朝飯の内容を信代には語っていない。 父が、→壮太郎は群馬へ行く支度は整ったのか、と尋ねる。 三日後に群馬の工場へ修業に行き、将来は「積誠館」を継ぐためである。 良く出来た兄で、失敗した事を見たことが無い、ヒトエの自慢の兄だった。 母は、→群馬は夏が凄く暑いっていうから、気を付けなさいね、と諭すと、→ええ、気を付けます、母さま、と穏やかに返していた。 食事のアト、お櫃の壁に残った白米を水でうるかし、庭に撒くと雀やヒヨドリが啄みにくる。 それを眺めるのがヒトエの秘かな楽しみだった。 →ウチの庭に住み着いている鳥達は贅沢だなァ、と壮太郎の優しい声が背中から聞こえて来た。 一緒にしゃがみ込んで雀たちがいなくなるまで眺めていたが、小さな溜息が漏れた、兄の秘かな懊悩を垣間見てしまったのを、ヒトエはいつまでも忘れぬ儘だった。

 

兄が群馬へ旅立って暫くした日、母に呼ばれて座敷に向うと、父も居て、薄紅の地に扇と流水をあしらった着物があった、仕立て上げたばかりの上質の絹だった。 →父さま、よろしいのでしょうか、こんな立派な・・・  すると母が言う、→折角、娘らしくなってきたからねェ、と嬉しそうに相槌をうつ。 →虫愛でる、ウチの姫君も、こうしてみると本当に姫君の端くれみたいだ、と父が目尻を下げている。 後年、この頃が幸福の天井だったと、ヒトエは思い出すのだった。

 

養蚕が近郊の農家に推奨され、総数が増えると桑の葉が不足し始めると、桑盗人が出始めて、農民の苦しさを知る善之助は犯人に心当たりがあっても、容易に断罪出来ないでいた。 投資目的にされた生糸の価格も下がり始め、生活物資も高騰して、働く者たちの生活は見る間に苦しくなりつつあった。 そんな時に、群馬で修業していた壮太郎が失踪したと連絡があった。 父母への詫び状を部屋に残し、身の回りのもの、一切合切とともに忽然と姿を晦ましたという。 噂では女工の一人と出奔したらしい。 仰天した善之助は群馬へ飛んだ、しかし、数日後、行方も真相を掴めない儘、帰って来た。 そして、女工の借金を肩代わりせざるを得ない、と口から漏れる。 ・・・今度は信代が作業所から見えなくなった。 北海道は新たな産業が興っては廃れ、また興ると言う過渡期であった。 だから夜の街も膨れると言う、揺るぎようなない事実があった。 ヒト買いの噂はうっすら知ってはいたが、ヒトエの身近に起こって言葉を無くした。 信代にはもう会えない、昏い気持ちが胸を塞いだ。

 

善之助はその年、賭けに出た。 東北で出された新種の桑の苗100本を取り寄せて植え付けたが、年をまたいで程なく結果が出た。 桑が芽を出さずに北海道の冬を耐える事ができなかった。 ことごとく凍り付いて死んでいたのである。 ・・・春先になって従業員は殆ど離れて行った。 積誠館が賃金を払う当てが亡くなったころ、それぞれが新たな働き口を見付けて行った。 ・・・夏が近くなった頃、早朝に目が覚めたヒトエは庭に佇む父の姿を凝視していた。 雀や鵯が蚕を食い散らかしている。 飛べない蚕は蹂躙されるが儘に、喰われたアトの白い羽だけが舞っていた。 父の残酷な仕打ちをただ眺めていた父の足元に羽の白さが際立った。 ああ、死に装束だ、とヒトエは思った。 蚕にとって、生まれてから死ぬまで一貫して潔い白色で染めあげられて一滴の血も残しはしない。 父はなおも動かず、語らず、実は何も感じていないのかも知れない。 家の奥には、床にヒトエの着物が拡げられていた。 母が傍に鎮座している。 →大事なお客様を迎えるので、これを着るように、とキツク言われていた。 →良いお話だと言う事なの、きっとヒトエにとっても色々な経験が出来る、人生が豊になるわ、と言いながら、母の眼はこちらを見ていなかった。 これから行儀見習いに入る先の代理人だと言うが、晴着をわざわざ引っ張り出す事の意味をヒトエはもう気付いていた。 あれほど大事にしていた蚕を死滅せしめた善之助が、娘の行く末如きでもう嘆きはしないであろうことを一番良く解っていた。 ヒトエは自分が身を委ねる運命を嘲りながら長い袖のあたりを踏みつけた。 自分の死に装束を踏み、足先に繭の成れの果てを感じながら、自分の心身を守ってくれるものが存在しないことを自覚した。 →未来なんて全て鉈で刻んでしまえばイイ、と冷たい声を吐いた。 ・・・養蚕と生糸は人造繊維の普及によって歴史の陰へと押しやられていく、抗えない流れの中で蚕たちを養う習慣も失われ、札幌に「桑園」という地名が残るばかりとなった。

(「そうえん駅」の近くのマンションに家内の姉がひとり暮らしである。 あの辺りが桑畑だった、という偶然があるかも知れない)

 

LPGAは日本人8人が出場、勝、上原、野村(棄権)が予選落ち。 畑岡、渋野、古江、原、西村が何処まで上位に喰い込めるか。 PGAは小平が出場、アジアンツアーはベトナムで日本人10人が出場、日本男子第2戦は、若い選手が上位を占めている。 日本女子第7戦は、 道産子5人が出場、さて、週末の結果は?

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令和5年4月14日(金)