令和4年(2022年)12月16日 第577回
中山七里「特殊清掃人」(Oさんから借用)
「エンドクリーナー」は特殊清掃業である。 秋廣香澄は6畳ワンルームの清掃見積もりの依頼を受けている電話の最中だった。 依頼主は成富晶子、大田区池上、代表の五百旗頭(いおきべ)亘が、→死体でもあったら大変だ、俺も行こう、と車のキーをボードから外して出て行く。 香澄は見積位なら私一人で充分なのに・・・ 死体は見た事はないけど・・・、と呟きながら不承不承ついて行った。 香澄が勤めていた事務機メーカーが倒産したのは昨年末だった。 急遽、就職活動を始めたが、六社目が「エンドクリーナー」だった。 清掃業であるが基本給も各種手当も驚くほど高い。 ブラック企業の臭いがぷんぷんするが高給の魅力には抗えず応募したところ、現れたのは五百旗頭で、小柄で人好きのしそうな風貌、気のイイ隣人のようだった。 特殊清掃と言うのは、ゴミ屋敷、孤独死の発見された場所等々の事故物件のハウスクリーニングだと説明された。 「エンドクリーナー」は、供養・遺品整理・家具の買取り・リフォーム・物件買い取りまで請け負っていた。 →新入社員に求められるのは慎重さと鈍感力、と正反対の事を言われて戸惑い、更に、鈍感力は?と訊かれて、誰にも負けません、と胸を張ったものだから、五百旗頭は笑い出しながら、→採用! 但し、試用期間三か月、と採用をしてくれたのだった。 だが、翌日から特殊清掃の特異さ大変さを身を持って知ることになった。
成富晶子は「ハイツなりとみ」築20年の二階建アパートの家主だった。 105号室が警察から入室許可の出た部屋だと言う。 住人の関口麻莉奈さんが自然死と判定されたのだった。 ワンボックスカーに用意されている防護服に着替える。 防毒マスクも被るがこれは決して大袈裟ではない。 放置された生ゴミの中には黴菌がウジャウジャ、ハエやネズミはウイルスの運び屋、遺体の体液に沸くウジ虫はハエのタマゴで直ぐ羽化し感染症の温床である。 五百旗頭は消毒剤のスプレー缶を片手に、お邪魔しますと死者に断わって部屋に入るが、イキナリ、黒い靄が二人に襲い掛かった。 靄の正体はハエの群れで、ゴミ袋の山がうず高く積まれている。 ハエの温床である。 ゴミ袋の幾つかは裂け目が入り、発酵した中身が臓物のように溢れ出ている。 表面が真っ白に見えるほどの蛆が沸き、床に灰のように撒き散らされているものはハエの糞で、さまざまな黴菌が潜み、悪臭の原因となっている。 部屋の中央の床には人の形をした黒い染みが浮いている。 染みには丸々と太った蛆虫が無数に重なり合っており、死後一か月半だナ、と五百旗頭が断言する。 死体から流れ出た体液が床下まで湿潤した場合には、床材、根太、大引きまで交換しなければ強烈な臭いは除去出来ない。 ワンボックスカーに戻ると、防護服を脱いで焼却用の箱に放り込む。 消毒除染が完全に出来ない以上、勿体ないが、その都度使い捨てである。 香澄の見積もりは最低10万円だったが、五百旗頭は、最低20万円だという。 30代の女性のクローゼットをゴミ袋に塞がれてまだ見ていない、ゴミ屋敷にしていた人がそれ以上に凄絶な状態になっている事はあり得る、もしかしてペットを隠し飼っていたいたとすれば死骸は病原菌の巣となる、という、今、目にした以上の可能性を疑った。 成富オーナーは不承不承ながら納得した顔だった。 最低額20万円、想定外な事があれば上限40万円で、明日にでも清掃を始める事に合意した。 関口さんの母・弥代栄さんがクリーニング費用を負担すると連絡がついたそうだ。 五百旗頭は香澄に指示した。 成富オーナーが言っている事は真実なのか、池上署で、本当に自然死だったのか、確認してくれ。 大家は自分に都合のイイ話しかしない、香澄は身勝手な依頼人を何人も見て来た。
池上署の担当者は田村晴菜という刑事だった。 同情するような目で香澄を見て、→酷かったでしょ、あの臭い、私の衝撃も酷かったです、関口麻莉奈さんは34才四ヶ月、解剖の結果は脳梗塞でした、異常に大きな血栓が血管に詰まっていて前触れもなく突然発症したみたいです、ペットを飼っていた痕跡は有りません、クローゼットにはゴミ袋は無し、ただ男物が何着かありました、半同棲だったかも知れませんが、本人以外の毛髪や下足痕は見つかっていません、スマホには交際相手との交信記録は一切ありませんでした、今朝がたお母さんが遺品として引き取っていきました。 翌日、関口麻莉奈の母親、弥代栄が事務所に訪れて来た。 水戸市の家で夫は麻莉奈が高三の時に亡くなり、東京の大学に進学してからは母親の一人住まいだった。 →素直に育った麻莉奈はホントにイイ娘で整理整頓、身なりもキチンとしていました。 入社したディーラーさんでも可愛がってもらい、職場の人間関係も良好だと言っていたのに、いつの間にか会社は辞めて部屋に引き籠ってゴミ屋敷にしてしまうし・・・ 私たちは一卵性母娘と言われるくらい仲が良かったので、麻莉奈の事は何でも知っています、どんな小さな事でも話してくれましたから、つき合っていた男性はいません、小さい時からいつも一緒でした、人生の節目にはいつも私が立ち会ってともに歓び合いました、だから、一人で死んでいった麻莉奈が不憫でかないません、クローゼットに残っている衣服は処理して下さい、私には不要なモノです、既に遺骨は手元に有りますし、思い出になる品は家に沢山残っております、さっそく今日から清掃を始めて下さい、と頭を下げて出て行った。
「エンドクリーナー」にはもう一人白井寛君がいる。 三人で仕事を廻しているのだ。 今日はアトから白井君が合流する予定である。 もう一人求人しなければ廻らなくなる、と五百旗頭も考えている。 5年前に設立されたから五百旗頭の前職はまだ教えてもらっていない。 →生きている依頼人は時々嘘をつく、でも死んでいった人間は嘘の吐き様がない、死んだ時の気持を汲んでくれ、と願ってる筈だ、と五百旗頭の持論を何回も聞いた。 「ハイツなりとみ」に着き、装備を確認して入室すると、またもや、ハエの大群が飛び出してきたが、殺虫剤を四方八方に振り撒き、ハエを蹴散らす。 ようやく乱舞を止めたので、慎重にゴミ袋を運び出して消臭剤を振りかける。 都内12ヵ所の最寄りの処分場まで運ぶしかない。 何本ものペットボトルに黄色い排泄物があるから、トイレの状態は使用不能の状態なのだろう。 生ゴミが半分、資源ゴミが半分のゴミ袋がワンルームに溢れるように重なっているから、相当の量である。 小便はペットボトル、大はコンビニの容器か何かに詰めてゴミ袋に放り込んでいる。 香澄はボトルに用を足すのは男だけかと思っていた。 麻莉奈さんはどんな理由で仕事を辞め、どうして引き籠りになったのか、いったい彼女はどこで選択を間違えてしまったのだろうか? 同年代だけに他人事だとは思えない。 清掃作業中に死人の残留思念が頭の中に侵入してきそうな錯覚に陥るのだ。 二人で20往復してゴミ袋を搬出してようやく床全体が露わになった。 体液で出来た黒い染みに無数の蛆が這い、うねうねと蠢いている。 フローリングの隙間にはハエのサナギがびっしりと並んでいる。 殺虫剤をくまなく散布してから金属製のヘラで隙間のサナギを丁寧に潰していく。 それらをゴミ袋に入れて外に出ると、防護服姿の白井君がトラックに先に出したゴミ袋を積み込んでいた。 部屋に戻ると五百旗頭はクローゼットを慎重に開けてハンガーからゴミ袋に詰め込んでいく。 香澄はそのすべてをスマホに収めた。 そしてフローリングの清掃である。 体液の沁み込んだ床材は電動ノコギリで切除する。 頭を突っ込めるほどの穴から覗くと、根太まで沁み込んでいたが、表面を削りゃ何とかなるだろうと、五百旗頭はカンナで削り出した。 用意していた床材を寸法通りに切断し、フローリングに嵌めていく。 隙間なくピタリと収まったら補修したようには見えない。 そうして部屋全体に消毒剤を噴霧して一旦撤収となる。 切り取った床材の一部を陽光に晒してみると、「みんな、滅びろ」と書かれている。 麻莉奈さんが書いた遺書なのだろうか? 世の中に対する恨み言だろうさ、と五百旗頭は言った。 部屋に戻って部屋の空気を入れ替えてから五百旗頭特製のブレンドされた消臭剤を振り撒く。 作業終了!の合図でワンボックスカーの前で防護服を脱ぐ。
大家の成富晶子を呼んで部屋の中に入って貰う。 目を見張って感嘆の声を上げた。 →奇麗、すっかり元道り、何も文句はありません、とそそくさと去って行った。 さぁ、アトは体を綺麗にしなきゃ、あの熱気の中、汗だくだった。 麻莉奈の書いたと思われる板切れを香澄は持ち出していた。
次の日曜日、麻莉奈の勤めていた輸入ディーラーを訪ねると、営業課の太田真理子と名乗った方が相手をしてくれた。 口実は、残された衣類にディーラーの制服は混じっていないか?とスマホで一枚一枚画面を見せていると、→この服は見覚えが有ります、これで関口さんは一躍有名になったんです、コンパニオンの色気が目立っていた時に、各社が自粛しようという雰囲気の中の東京モーターショーで、自分がコンパニオンになると手を上げたんです、性格は控えめで目立たない優等生でしたね、トップからもOKが出て、アニメのキャラクターの男装コスチュームはモーターショーでダントツの注目を集めました。 色気から脱却した男装の美女の説明に人だかりの山でした。 ところが、政治団体から理不尽なクレームが入り、大評判だった麻莉奈さんの幸せな時間が終りました。 前近代的なジェンダー観で悪評高い極右の「日本謹厳党」でした。 男は男らしく、女は女らしく、女装や男装などは風紀が乱れるしかない、社会通念上も倫理上も排除されるべきだ、今後一切中止せよ、さもなければ会場でのデモも辞さない、と毎日のように続くクレームに不気味さを覚え、常識が通用しない相手の脅しに屈して次回から中止したのだという。 一番傷ついたのが関口さんで、自分の存在価値を全面的に否定されて彼女の落胆振りには胸が潰れそうでした、そして辞表を出して来たのです、慰留しても本人の落ち込みには翻意させる事が出来ませんでした。 香澄は納得がいった、同棲を疑われた男性衣服はこれに使ったモノだったのである。
香澄は水戸の関口家を訪ねた。 母親に、やはりスマホで衣服の一枚一枚を見せていると、派手な色合いのジャケットを見た瞬間、大きく目を見開いたのだった。 →こんな服は一般の店では売っていません、麻莉奈さんの秘かな趣味だったコスプレ専門店で購入したんでしょうね、山高帽を被った男装の麻莉奈さんの一世一代の晴れ姿です、しかし、日本謹厳党からかなりしつこいクレームが入って麻莉奈さんは全人格を否定されて会社を辞め、引き籠って今回の結果になりました、日本謹厳党のポスターがこの家の塀に貼ってありました、貴女もこの政党に共鳴していますね、と迫ると、昏い目をした弥代栄は口を噤んだままだった。 しかし、→どうして存在を否定されたなんて感じるんですか、大袈裟な、たかが男装を禁じられただけじゃありませんか、と言うので、香澄は、→これは私の推測ですが麻莉奈さんは生物的には女性でも、自分では男性だと認識している人だったのではありませんか? 政治団体を介して娘の男装を封じ込めようとしたのは貴女ですね! 香澄が辿り着いた結論は、酷くおぞましいモノだった。 性別違和に悩む娘と、旧態依然の頑ななジェンダー観を持つ母親が同居すれば軋轢が生まれるのは当然だ、大学へ行ってから一度も帰省しなかった理由が説明がつく。 →やっとあの娘は私の許へ帰って来ました、お骨だけになってしまったけど、もう、私の言い付けに逆らわない子に戻って、何でも普通が当たり前が一番イイんです、とうっすら笑って言った。 「みんな、滅びろ!」の真意がここにあった。
(ここ迄、全218ページの内、55ページまで。 このアト、三話が続く。 読み応え充分と、孤独死の清掃業等々の小説は幾つか読了しているが、体液の湿潤等々の事実を新しく知って、結構、先が進んだ、お薦めである)
(ここ迄、5,000字越え)
令和4年12月16日(金)