令和4年(2022年)10月26日 第561回
近藤史恵「歌舞伎座の怪紳士」(単行本は2020年、図書館から借用)
岩居久澄(くすみ)・27才。 眼科医の姉の香澄は目黒のマンションで一人暮らし。 →家での運動でも充分ですよ、とペットショップの店員に勧められて、一目惚れしたチワワの「ワルサ」を衝動買いしたが、毎日一時間以上の散歩をサボると、ハゲが出来て家中のいろんなモノを破壊し始めたらしい。 それで多摩市の実家で引きこもり中の妹に散歩させることを条件に、月二万円で預けられたのだった。 57才の母・美和子は大手化粧品会社のラボで働く正社員、生活費を負担して貰い、家事とお弁当をつくる約束で月一万円、それが久澄の総収入額だった。 パニック障害を発症してからもう三年間も自宅警備員をやっている。 このまま、母が病気になったり定年になったり、香澄が結婚すると、私の生活はどうなるのだろう、と不安はあるが、今はその不安に蓋をするしかない。
火曜日の午後は香澄の勤めているクリニックが休み、持ってきたスーパーの袋を、→すき焼き食べたいから食材買って来た、と差し出される。 姉はワルサに週一で会うのも目的、ワルサはこの家の力関係を充分に知っている。 一に母親、二に姉、特に久澄は、ワルサ以下の扱いである。 母も姉も久澄に批判的な事は一切、言わない。 ただでさえ自責の念があるのに、責められたら生きて行く事さえ辛くなる。 →それはそうと、この間しのぶさんから誘われてご飯食べた、と香澄がいう。 しのぶさん・76才は父方の祖母、久澄が高校生の時両親は離婚した。 父はもう再婚して小学生の娘がいるらしいが会った事もないし会いたいとも思わない。 香澄はしのぶさんに可愛がられている。 孫である事に変わりはないから、と食事や旅行を結構している。 久澄はしのぶさんが苦手だ、お花の先生をしていて礼儀作法にもうるさい。 常に自分の行動を見張られているような気がするのだ。 →最近、膝が痛くて出歩くのが億劫になって来た、久澄に代わりにお芝居を観に行って、メールで感想を報告するアルバイトをお願いしたいってサ、お芝居の切符を良く頂くんだけど断わるのは勿体ない、礼状を書くときに感想を添えたいからだって、日当5,000円、交通費と諸経費プラス、と好条件である。 しのぶさんと顔を合わせずに出来るアルバイト、月収30,000円の身にとって有難く楽な仕事だ。 →わかった、やる、と即答だった。
一番初めに送られてきたのは歌舞伎のチケットだった。 一等席、18,000円、久澄の月収の半分以上、気が遠くなる。 手紙が同封されていた。 時候の挨拶後、「久澄さんご無沙汰しています、お身体の具合いは如何ですか? このお願いを引き受けてくれてありがとう、追加のお願いです、筋書きを買って下さい、あなたの気に入った舞台写真も一緒に、そのお金はアトで請求して下さい、歌舞伎は時間が長いので途中でお弁当を食べる時間があります、日当に1,000円上乗せしますのでお弁当を買って下さい、感想を心から楽しみにしています」と到れりつくせりである。 やった!と拳を握りしめる。 自宅からオニギリを持っていけば日当6,000円である。 お説教は一つもない、ホッとした。
その夜9時過ぎ、母が帰って来るなり、→あ~、帰って直ぐにご飯食べられるのが最高!と、大声で鰆の西京焼き等々のおかずで先ず、缶ビールを、ぐい!と飲み干す。 →人がつくってくれたご飯程おいしいものはないわ、弁当も美味しかったし、とこの3年間同じ言葉を口にする。 働きながら、食事や家事と子育ての20年間以上の役目を終えた実感がこもっている。 →歌舞伎? 私のワンピース、好きなのを着て行きなさい、とお許しが出た。 久澄の普段着はロクな物しかない。 ジーパンだの、毛玉の付いたセーターだの、アトはボサボサの髪だけは切らなくちゃ。 ・・・地下鉄・東銀座駅で下車すると、まもなく地下と思えないほどの大きなホールのような場所に出た。 弁当、コーヒー、和菓子店等も並んでいる。 エスカレーターで昇ると、丁度、歌舞伎座の稲荷神社の前に出た。 チケットを切って貰って、筋書きを買う。 1,300円。 劇場内で座席を探す。 通路の傍、イイ席なのだろうと想像する。 →失礼します、と60代の背の高い男性が、久澄の前を横切って右の席に座る。 白髪混じりの痩せ型、スーツは高級品のように見える。 幕が開く、台詞が良く判らない、眠気が押し寄せてくる、ふと右を見ると、小さな液晶画面が前の椅子の背についていて、そこに字幕が出ている。 文字で見ると判り易い。 漢字で書かれたモノは意味が推測しやすいのだ。 次回から自分も借りられるのだろうか? ・・・終わったアト、放心したように座席に座り込んでいた。 凄いモノをみてしまったような気がする。 映画と違って、目の前に煌びやかな役者がいるという状況はずっとドラマティックだった。 18,000円は高いけど高くない、と正直思った。 ここから演目がアトふたつもあるのだ。 隣の紳士が席を立っていく。 ふいに、二列前の席にいる女性が目に入った。 四十代位の女性は更に二列先の座席列をきょろきょろしながら歩いている。 何か、怪しげな振舞いだ。 その座席に置いてある紙袋からペットボトルを抜き出し、自分の鞄から別のボトルを出してすり替えた。 そのまま、早足で逃げるように立ち去った。 久澄はポカンと口を開けて見詰めていた。 今のは一体何だったんだろう? 周りの人たちは弁当を食べていたり談笑していて気が付いている人はいないようだ。 まさか、毒の入ったボトルじゃないよね、と不安になると過呼吸に陥る。 落ちつけ! 隣の紳士が戻って来た、もし、あの席に同じ人が戻って来たら笑い話で終わる。 しかし、違った人が座ったらこの方に話してみよう。 だがその席に座ったのは美しい若い女性だった。 隣に座った40代の男性と楽し気に談笑している。 第二幕は一時間ほどで終わった。 思い切って隣の紳士に話しかけると、口許には柔かい笑みが浮かんでいる、これなら安心して喋れる。 →二列先の二人連れの紙袋にペットボトルをすり替えた人がいたんです、と打ち明けると、制服を着た女性の案内人を呼び止めて要点を説明してくれた。 →わかりました、その席のお客様にお伝えします、と言うと、座席の傍にしゃがみ込んであの美しい女性に説明している。 美しい女性は不思議そうな顔でペットボトルを取り出した。 そして案内人はこちらに戻って来て、→未開封のボトルでした、自分は蓋を開けて少し飲んだ筈なので、誰かがスリ替えたのは間違いない、気味悪いので飲むのはやめると仰っていました。 久澄は紳士と顔を見合わせた。 すると、美女の隣の男性がこちらを睨んでいた、憤りのような表情が浮かんでいた。
三幕目も終わって席を立った。 先程はありがとうございました、と礼を言うと、いえいえ、と手を振りながら、→歌舞伎は良くご覧になるんですか? 楽しまれましたか?と問われたので、→いえ、初めてです、チケットを貰ったので・・・と返しながら、出口迄来ると、係員が客席で眠る女性を起こしていた。 鼾を掻きながら深く眠りこけているその顔は、先程のボトルをすり替えた女性だった。
紳士に言うと驚いた顔になって、先程の女性案内人に伝えてくれた。 紳士は傍にしゃがみ込んで、→何か、薬物を摂取したのかも知れない、と呟くと、女性案内人は救急車を呼びに走った。 まだ9時だ、終電には充分時間がある。 紳士も気になっている、→タクシーでアトを追いましょう、と誘ってくれた。 帰宅していた母に電話して、遅くなるかも知れない、訳は明日、遅くなったら姉さんの所に泊まる、と断わってから、姉にも電話を入れる。 もしかして遅くなったら泊めて、と了承を得る。 病院のソファに座りながら紳士に歌舞伎の感想を伝える。 受け答えで感心したのはこの紳士は相当な通であった。 更に安価な観劇、幕見席なら一つの演目で1,500円、短い踊りなら500円の時もある、と教えてくれた。 ・・・看護師が歩いてくる、→目覚められました、頭痛薬と睡眠導入剤を間違えたと仰っています、と去って行った。 紳士と共に病室に入り込んで尋ねた、→若い女性を連れていたあの男性はお連れ合いですか? それともごきょうだいですか? 途端に、女性は、→知りません!とシラを切った。 しかし、問い詰めた結果、あの男性は夫だった。 目を付けた若い娘に睡眠薬入りのジュースを飲ませて体を奪う犯罪者のやり口だった。 後ろの席から夫のそれを見つけた女性は証拠隠しに飲み切ってしまったのだ。 →夫と別れろと? 娘の私立高校の学費を私が稼げると思ってるの? 生活できると思ってるの? 離婚して養育費をキチンと払ってくれるような人じゃない、あなた方にはわからない!とキリキリ声で叫ぶ。 →夫に犯罪行為をさせなければいいんでしょ、誰にも文句は言わせない!!と強い決意が滲む言葉で締めくくった。 何とも悲しい決意である。 久澄は働けない事実があるから、この奥さんの哀しみが胸に迫った。 誰にも救えない、彼女自身が救いなど望んでいない。 病院を出ると、紳士はタクシーを呼び寄せて、→お姉さんの家までタクシーで帰りなさい、タクシー代は出してあげるから、年上の人間には甘えた方がイイ、との言葉に甘えることにした。 タクシーで走り出してから名前を聞くのを失念していた、と気付いたが、また会えそうな気もする安心感があった。
姉・香澄の家には一年振りの訪問、コンビニで缶ビールを一本買った。 いくら貧乏でも手ぶらじゃ気が引ける。 歌舞伎に行って急病人が出て病院に寄った、と説明する。 歌舞伎は面白かった、思っていたのと全然違った、もっと難しくて格調高いものだと思っていた、と興奮して告げた。 →久澄は家事が得意だから結婚するのもイイかも知れない、って言われても、子供を産んで育てるなんて全く自信がない。 今の自分は中学生くらいで止まった儘なのだと改めて思う。 そんな話で終わって、翌朝、香澄は8時半に出て行った。 泊めて貰ったお礼がわりに、洗濯物を全部畳んで、掃除機を掛けて、10時過ぎにゆっくり家を出た。 いつもと違う経験をしているだけで日常の色彩が変わった気がした。 この三年間、日常は変わる事が無かったのだ。
三週間後、しのぶさんからチケットが届いた。 この間の感想文は便箋5枚にもなって少し批判的な事も書いたから、次回は貰えないかも知れないと不安があった。 また歌舞伎だった。 二等席、14,000円。 当日、トイレに行ってから筋書きを買い、自分の席を探す。 一階の最後列の通路側である。 →あの、失礼ですがおひとりですか?と同じ世代の女性から声が掛かった。 →実は、私の席は桟敷席なんですが、今日は途中で劇場を出ないと行けないんです、目立っちゃうので後ろの席と交換してもらえませんか、厚かましいお願いですが。 桟敷席なんて良く判らないし、と迷っていたら、隣の席の中年女性が、→行ってきはったら? 桟敷席なんかなかなか座られへんよ、と関西弁でアト押ししてくれた。 わかりました、本当ですか、ありがとうございます、とやり取りのアト、半券を渡された。 ロビーで座席表を確認していると、→こんにちわ、またお目に掛かりましたネ、と先日の紳士がにこやかな顔で立っていた。 →先日はタクシーをありがとうございました、としどろもどろでお礼をいう。 運転手は運賃を請求しなかったのである。 →今日はどちらの席ですか? と尋ねられたので20,000円の半券を見せた。 →ああ、桟敷席ですね、あちらから入れますよ、と指さしてくれた。 小部屋の中に座椅子ふたつと掘りごたつがあり、その前に客席が拡がっている。 隣の座席に30代半ばの女性がやってきて筋書きを読み始めた。 高価な弁当も広げている。 一幕は楽しい芝居だった。 →知らざァ、言って聞かせましょう!と台詞が弾ける。 このフレーズは聞いた事がある。 弁天小僧菊之助だァ、と耳に心地良い響きだ。 オニギリを頬張りながらふと一等席を見ると、男性が久澄に向かってスマホのシャッター音が聞こえた。 何故、私を? 不安になってロビーの長椅子に崩れるように座り込む。 全身から汗が噴き出して来るような、過呼吸にならないようにゆっくり数を数える。 この事を席を交換した女性に伝えようと、前の席に行って見たがいない、上着があるからトイレだろうか? 二幕が始まる時間になっても戻って来ない。 二幕が終わってまた行くとまたいない、上着だけが置いてある。 茫然としていると、あの紳士が気付いて声を掛けてくれた、→どうか為さいましたか? ロビーに出て、→知らない人から写真を撮られたんです、それが気持ち悪くて、元々あの席だったんですが、桟敷席と交換したんです、何か困った事になったら言いに来て下さい、と言ってくれたのに、二回ともいません、と打ち明けた。 →確かにみっつもオカシイですね、高い席なのに安い席と交換した、何故か、写真を撮られた、休憩時間に席にいると言った人がいない事、確かに三つだ。 写真を撮った人はあの人だ、グレーのジャケットを着ている。 隣の席の女性と何かを話している。 →わかりました、私が話を聞いてみましょう、もし、間違いなら謝りましょう、あなたの写真がスマホに残っていたら消して貰いましょう、私は堀口です、あなたは部下と言う事にします、お名前を伺ってもイイですか、岩居さんですね、とにっこり微笑んだ笑顔は素敵だった。 →結果報告は幕見席入り口で、あなたは桟敷席にお戻り下さい、とグレーのジャケットの男に近付いて行った。
幕見席入り口には堀口さんとあのジャケットの男性が立っていた。 カフェに入って堀口さんは、→私は名乗りました、あなた方は名乗るかどうかを決めて下さい、というので、僕は一郎です、と如何にも偽名臭いので、こちらもしのぶです、としのぶさんの名前を使った。 男性は、→SNSを使ったチケット詐欺です、一緒にいた連れも被害者です、アンタが座っていた桟敷席がネットオークションで売られていたのサ、とキツイ目をしている。 久澄は必死に考えた、席を交換して欲しいと言った女性は老舗のお弁当屋の紙袋を持っていた、そして桟敷席の隣に座った女性も同じ弁当をパクついていた。 これだ! きっとあの二人はグルだ、私を映した写真に隣の女性も映っていた。 お弁当屋さんに行って、この人が一人で買ったのか、二人組だったか、確認しましょう、と意気込む。 更に、堀口さんは、隣に座っていた女性も共犯だと見抜いてその証拠を示してやった。 男性はようやくはッとなって自分が騙されていた可能性にやっと気づいようだった。 確かに、先程からメールに応答がない、と狼狽している。 一郎はようやく久澄の写真を削除した。 →どうもすみませんでした、と一郎は深く詫びてくれた。 別れ際、堀口さんは、→岩居さんの下の本名を教えて下さい、久澄さんですか、またお目にかかれるかもしれませんネ。 堀口さんはどうしてしのぶが偽名だとわかったのだろうか?
(ここ迄、305ページの内、第四章118ページまで。 このアト、第11章、エピローグと続く。 読み応え充分、それにしても三日連続でUPしたなんて初めての事だ。 読む力、書き込む力充分だと自画自賛しておこう)
(ここ迄、6,300字越え)
令和4年10月26日(水)