令和4年(2022年)1月26日 第483回
今冬は積雪が多い。 もう既に昨年分の除雪車回数に達している。 これから降った分は昨年以上の積み増しとなる。 やれやれ、である。
浅田次郎「夕映え天使」(文庫本、単行本は2009年)
昭和軒は一階が10坪の店で、二階が6畳二間に台所の付いた住まいである。 51才の一郎と83才の連れ合いを亡くした親父との二人住まいである。 カウンターは8席と、10人程の宴会が出来る小上がりがある。 20年前、おふくろが皿洗い中にバッタリ倒れて死んだ。 一郎が上野のキャバレーの女を入籍したら一週間でずらかり、兄と名乗るやくざ者におふくろの香典迄ふんだくられた。 以来、親子の男やもめ暮らしが惰性で続いている。 ・・・その夏、カウンターでラーメンの一滴迄飲み干した40才位の女が、突然、→あの、住み込みで雇って頂けませんか?と思い詰めた様に言った。 勿論、そんな余裕など無いから、→生憎だけど手は足りてるんだ、と一郎は断わった。 すると親父に向かって、→少しの間でイイんです、ご迷惑はお掛けしませんから、と懇願した。 →少しってどれくれえだね、てえした給料はやれねえけど三度の飯はたんと食わせる、住み込みと言ったって余分な部屋は無いから、そこの小上がりで寝て貰う。 途端に女はカウンターの止まり木から滑り落ちて客の食器をかたずけ始めた。 →おやじ、何を考えてやがる、 →よっぽど困って居るんだろう、そこらで電車にでも飛びこまれたら後生が悪い。 のちに判ったことなのだが、親父は一郎の嫁が欲しかったのだ、この際、訳アリだの、オツムが多少足らなかろうが向こうから転がり込んで来た者を放っとく手はねえェ、という本音があった。 その日から純子と名乗った女は昭和軒の少しトウの経った看板娘になった。 半年が過ぎて年が明けて、三が日が経ってボチボチ店を開けようと一郎が階段を下りると、厨房はピカピカに磨き上げられ、押し入れにあった古い暖簾とシーツや枕カバーにこれでもかというくらい糊が張ってあった。 純子が何処にもいない。 半年の間、甲斐甲斐しく働き、華やかなお喋りで笑顔を振り撒いていたのに・・・。
そして一年後の正月、燗の付いたお銚子を持って二階に上がる。 →おめェが純子に何かつまらねェ事を言って、あいつが気を悪くしたんじゃねェかと思ってナ、俺だって後先もなく飛び出すほどの酷ェ事は言ってねェ筈だ。 →おい、親父、セクハラしなかったか? 毎晩肩を揉ませて、序にケツを撫でたりしなかったろうナ、後生が悪いぜ、いってェ純子に何を言った、聞かせてくれ。 オヤジは瞼を被った、おふくろの葬式以来の涙だ。 →俺ァ、あいつに頼んだんだ、イチかバチかだった、お前の嫁になってくれとナ、そうすると10回以上は言ったナ、涙を零しながら、ありがとうございます、ありがとうございますってナ。 一郎はパチンコでドル箱を積み上げて意気揚々と凱旋したあの晩、純子は小上がりで布団にくるまっており、オヤジは炬燵で高鼾を掻いていた。 純子は翌朝、姿を消したのだった。 書置き一枚残さずに綺麗に消えた。
正月四日、朝9時過ぎ、電話のベルが煩い。 →新年早々お騒がせ致します、こちらは長野県警軽井沢警察署ですが、実は昨年の11月30日に発見されました身元不明者についての照会です、持ち物の中にそちらさんのマッチがありましてね、年齢は推定35~45才位の小柄な女性、身長は150cmほど、紺色のトックリのセーターにジーンズ、フードに毛の付いた白のダウンコート、靴はスニーカーです。 一郎は思わず息を詰めた、後ろを振り返ると、どてらを羽織って親父が階段に腰を下ろしていた。 →直ぐに行きます、心当たりがある、知り合いかもしれねェ。 途端に親父がギョッと目を剥いた。 →あいつだろ、あいつがどうかしたんか。 →いや、軽井沢で高校のダチが事故を起こして意識不明だからすぐ来いってヨ、と嘘を付く。 一郎もトックリのセーターを被った、クリスマスに親父がプレゼントしてくれた純子とお揃いのセーターだ。
正月明けというのに、新幹線は帰省客とスキー客で混雑し、自由席には空きが無くて一時間余りデッキに立っていた。 窓ガラスに映り込む顔は随分老けこんでいる。 このツラに一生付き合ってくれと親父に懇願されて純子は居場所を失ってしまったのだろう。 純子が働き始めて直に明るくて気立てのイイ女だった。 半年の間、ずっと幸せな気分だった。 この紺色のトックリのセーターとフードに毛の付いたダウンコートが紛れもない証拠に思えた。 二人っきりで川開きの花火を観に行った帰り、屋台のおでん屋で純子に愚痴を言った。 20年前に嫁が逃げた事、それがおそらく手の込んだ美人局であった事、持ち込まれた縁談も断わり続けた事、でも親父があの齢になればできる事なら安心させてやりたい、と確かにそこまでは口にした筈だ。 やさしい女だと思った。 自分の身の上はひと言も語らず、一郎の愚痴を我がことの様に受けて涙ぐんでくれた。 →マスター、そんな事まで話してくれてありがとね、きっとそのうちイイ事もあるよ、神様は不公平じゃ無いから。 女の本物の優しさが身に染みて妙に満足してしまった。 あの時、もっと純子の愚痴を訊き出してやれば良かったと、どれ程悔いたか判らない。 鈴木も純子も、どちらも偽名だろう、言葉にはいくらか東北の訛りがあったように思うが定かでは無い。 本名も正体も、暴いてはならぬと言うのが親父との暗黙の協定になった。 フードに毛の付いた白いダウンコートは、上野・松屋のブランドショップで値札をひと桁間違えた位の、悪いパチンコ台に当たってしまった、と覚悟して買った。 →ボーナスの代わりだ、ハッピーバースデイ! 純子はほろほろと涙を零して大切にしてくれた。 一郎はそれを着こんだ純子を見た事が無い。 出前も銭湯もおふくろのおさがりのジャンパーを着ていた、よっぽど大切にしてくれたのだろう。
軽井沢の駅前で貸自転車の店から1,000円を払って借り出し警察署に向かった。 タクシーで乗り付けるより、自転車を漕ぐ間に腹が決まるだろうと思ったのである。 しかし、直ぐに後悔した。 浅間下ろしの風は冷たく、手がかじかんでしまった。 警察署に着くと、風体の良からぬ男が煙草を喫っていた。 黒い上着に白のマフラー、手首には黄金のブレスレットとロレックスが輝き、肩から革のコートをバサリと羽織った男である。 一瞬、目が合ってしまった。 一郎も一服しようと煙草を咥えると男が金のライターを差し向けて来た。 →あ、どうも、と礼を言った一郎よりもかなり年下と思われる男は、短く刈り込んだ髪が金色に染められていた。 →もしかして、おたく、東京のラーメン屋さんやないですか? ワシ、うどん屋です、と関西弁で、下島という名刺を差し出してきた。
警察が、→東京からもう一人来られるので、それまでチョッとお待ち下さい、と昭和軒を知らされたらしい。 →去年の正月明けに、雇うて下さい、と言われて雇うただけのワシは善意の第三者や、ちよ子は安給料で良く働いてくれましてん、住むとこが無い言うから俺のマンションのひと部屋に住まわせた、けど、何もあらへん、誤解せんといてや。 一郎は僅かに嫉妬した、ホントに何も無かったのか? どうやら昭和軒を出たアト、真っ直ぐ関西に行ってうどん屋に駆け込んだようだ。
警察官の説明が始まった。 11月30日午後二時半、千ヶ滝の山中で首吊り死体を発見、司法解剖の結果、死後二ヶ月間を経過、腐乱状態だった。 遺留品は昭和軒さんのマッチと下島さんのお名刺がコートのポケットに入っていましたが、どちらもボロボロになっていて、鑑定にこれだけの時間が掛かりました、と言う。 遺体は既に焼却済み、東京では鈴木純子、大阪では佐藤ちよ子、どちらも捜索願の出されている失踪者の中に該当する名前はありません。 どちらも偽名でしょうね。 何れにしても身元の割れる所持品は一切処分してから覚悟の自殺ですね、マッチと名刺だけは持っていたという事はお二方には連絡して下さい、という意思表示と判断してよろしいかと。 其れ以上は調べないで欲しいという意味ですね。 自殺は褒められた話じゃないが、これ以上、誰にも迷惑が掛からぬよう、それ位、誠実に精一杯生きた結果だと思ってあげましょうよ、もしかしたら天使みたいなひとだったんじゃないかね、正月早々、お二人は善行を積んだと思って下さい、では改めてご協力に感謝致します、ご苦労様でした。
二人は揃って警察署を出た、別々の取調室だったので、大阪での純子の生活振りは知らされていないが、恐らく、こっちと同じような按配だろうと、一郎は思った。 下島が電話をしている、→ああ、おふくろか、ちよ子とは似ても似つかないばあさんや、まったく人騒がせな話やったなァ、今日中に帰るさかい、駅弁でも買うとくわ。 一郎も、俺も嘘を付かなきゃ、と電話を借りた、→こっちは大した事故じゃなかった、ダチが何人か集まったのでお騒がせ序に同窓会をやっていた、駅弁でも買って帰るからよ、じゃあな。 下島がしみじみと言う、→あの左手の人差し指の指輪、俺がプレゼントしたんや、持って帰りたかったけど、おふくろに見せられんし。 一郎はセーターもダウンコートも口に出す勇気は無かった。 名前も誕生日も嘘だらけだった。 どうして嘘を付いた、嘘さえ付かなかったら幸せになった筈だ、俺でもこのオッサンでもお前が背中を向けさえしなけりゃ幸せになれたんだ、こんちくしょう!と叫んだ途端に涙が溢れた。 下島もグズグズ泣き出した。 どうやらあいつに惚れていたらしい、そう気づいた途端、おやじとおふくろにとんでもない不幸をかけたような気になって更に泣けてきた。 夕映えの天使は暮れなずむ冬空にいつまでも消えなかった。
以下、「切符」 「特別な一日」 「琥珀」 「丘の上の白い家」 「樹海の人」 と、泣かせの浅田次郎ワールドが5話続く。 乞う!お楽しみ。
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令和4年1月26日