令和3年(2021年)10月27日 第465回
図書館から文庫本2冊と単行本1冊を借用。 単行本は今年1月の申し込みである、10ヶ月も待たされたが、まだ昨年5月と10月に予約した2冊が廻って来ない。 恐るべし待ち時間である。
佐川光晴「駒音高く」(文庫本、単行本は2019年)
奥山チカはこの元旦で67才になった。 職は清掃員で、ガンになった母を看取った時から始めているからもう26年を過ぎた。 将棋が好きで仲間の大工たちと自宅で対局していた、左官屋だった父は心臓発作で亡くなった。 チカも良く教えてもらっていた。 6つ年上の屋根瓦職人と結婚したチカだったが、26才の時、子供が出来ないまま、夫は交通事故で死んでしまった。 3つ上の兄は優秀で、職人の父や育った家庭を毛嫌いしていた。 兄は猛勉強の末、京都の名門私立高校に特待生として入学し16才で家を出た。 大学卒業後に一流メーカーに就職して上司の一人娘と結婚し、順調に出世をしているらしい。 母の法要の席で、→何故、お前は再婚しなかったのだ、あんな家は土地ごとお前にくれてやる、今後は何があっても俺を頼るな、家政婦か清掃員になって細々と暮らせ、と蔑むように言った。 良いヒントだった、職安を訪ねると、→難しい仕事じゃ無いので初めてでも安心です、真面目にキチンとさえすれば・・・と、すぐ斡旋してくれた。 チカはモップで床を拭き、スポンジで便器を磨いた。 清掃員は汚れ仕事だと敬遠されているらしいが、みんなが使う場所を綺麗にすることがどこが惨めなのか? しかも清掃員は不況知らずだった。 10年前、同じ会社を引退した由美さんの後釜として、将棋会館を受け持つ事になった。 奨励会の入局を目指す小・中生が第二・第四の日曜日に研修会の対局があった。 午前中に二局、午後から二局の将棋を指して、その成績で昇級・降級が決まり、毎年8月に行われる奨励会試験に臨むのだった。 奨励会に入れなければ将棋のプロにはなれない。 研修会では幕の内弁当が用意されているが、午前中に成績の悪かった小・中生は殆どが食欲が無くて弁当の中身は大幅に余った儘、クズ箱入りである。 4年ほどまえ、小4か小5の男の子が、→おばさん、ゴメンナサイ、こんなに残して・・・と固まっていた。 しっかり挨拶されて躾の良い家に育ったナ、と感じたチカは、→しかたないさ、午後も頑張りナ、と優しく声を掛けた。 会話をしたのは初めての事だった。 それからあの子を気にしたが、もう辞めたのか、会えることは無かった。
チカは安上がりなバス旅行で温泉巡りの趣味があったが、最近、テレビで大阪の通天閣や大阪城を見て興味が湧いていた、決定的だったのは関西将棋会館だった、東京と同じ会館がある。 夜10時発の夜行バスに乗って早朝5時50分着、ビジネスホテルにキャリーケースを預けて、朝からやっていた屋台で豚骨ラーメンを啜り、法善寺横丁に出向き、苔むした石造りの明王様にヒシャクで水を掛け、2~3日お邪魔しますと、土地の氏神様に挨拶した。 出張仕事の多かった父に教えてもらった儀式だった。 JR福島駅で下りると5階建ての関西将棋会館ビルは直ぐに判った。 大きな通りに面していて、神社の裏にひっそり建っている東京の将棋会館とは立地からして違った。 ビルの玄関横にレストランまである。 二階の将棋道場に入ると、→お孫さんの応援ですか、それとも対局ならこの用紙に書き込んで下さい、と25才位の優しそうな青年である。 東京から旅行で来た、将棋は昔、父に教わっただけ、と説明すると、5~6才の子供から10才位の子までを相手に勝ったり負けたりした、ひとつ覚えの棒銀戦法で父との対戦以来、50数年振りの対局だった。 お昼にレストランでヒレカツとエビフライのランチを美味しく食べて、東京にもあればイイなと思った。 気が付くと3時だった。 戦績は6勝3敗だった、受付の青年が、→3つの勝越しです、奥山チカさんに8級を認定します、と大きな声で言ったので皆が拍手してくれた。 →いつかまた参ります、と口下手なりに精一杯の挨拶をしてお辞儀した。 三階で奨励会の例会をやっているらしく、胸に名札を付けた中学生らしき7~8人が上って来る。 その一人に吃驚した、4年前に、残したお弁当を捨てにきた男の子だった。 相手も気付いたらしく、→千駄ヶ谷の将棋会館の人ですよね、ぼく、父の転勤で大阪に引っ越してこっちの将棋会館に通っているんです、奨励会試験に合格して今は1級です、今日は一勝一敗です、アト一局なんで外の空気を吸いに行きます。 関西は一日、三局らしい。 チカは渡された対戦票を差し出した。 →奥山チカさん、67才、8級、と読み上げると、→ごめんなさい、ぼくは大辻弓彦と言います、今、中二で4月から中三です、三段になったら東京の将棋会館でも対局出来るんです、頑張ります、と気持ち良い挨拶だった。 チカは、東京でも将棋を指そう、父が使っていた将棋駒と将棋盤を押し入れから引っ張り出して将棋を勉強しよう、と新しい生き甲斐を見付けたのだった。
朝霞こども将棋教室(三年前に亡くなった奥さんの父親から、婿さんのプロ棋士・有賀5段が引き継いだ)で、野崎翔太・5年生は、2年生の山沢貴司君と対局中だったが、15連勝で初段になったばかりの鼻っぱしを折られるように惨敗した。 相手は二段の腕前と聞かされて納得したが、3才も下の子に負けたのは悔しい限りだった。 一旦、外に出て地団太を踏んで悔しさを紛らわせた。 有賀先生の義父は、教室の教え子からプロ棋士を出すのが夢だったが果たせずに亡くなった。 しかし、一番有望なのは、4年前に大阪に引っ越した大辻弓彦クン、今、高一で奨励会二段なので、間違いなくプロになって、俺より強くなるんだろうな、と有賀先生が苦笑いをしている。 奥さんが言う、→強くなる子はとんでもない負けず嫌いで、負けると大泣きしたり、暴れたり、大変なの、大辻クンも、山沢クンも、そしてさっきの野崎クンも同じだからもっと強くなるわよ。
鴻巣市に住んでいた翔太たち野崎一家は朝霞市の店長が交通事故にあったので、父への転勤命令で半年前に朝霞市に引っ越してきたのだった。 それまで少年野球に打ち込んでいたが、この町の公民館祭りで覗いた時に将棋に誘ってくれたのが、こども将棋教室の有賀先生の奥さんだった。 有賀夫婦から色々な手ほどきを受けて、将棋って面白いな、と思ったら、こども将棋教室に誘われたのだった。 母と二人で行って有賀先生と4枚落ちの対局をした。 飛車角香車落ちである。 これ迄必死に将棋に打ち込んで駒落ちも勉強していたお陰で先生に勝つ事が出来た。 →ウン、良く勉強してきたね、じゃ、6級から始めよう、と言って対局を行い、6級二人に連勝した。 次回は5級二人に連勝して4級に昇級した。 その後も連勝を続け、今回、初段になった途端に山沢2段に惨敗したのだった。
二週間後、将棋教室には初段以上は山沢クンと翔太の二人だけだった。 先ず、二人が対局し、そのアト、有賀先生が二人と二面打ちで指導してもらう事になった。 しかし、40分勝負が90分経っても勝負が付かず、→今日はこれ迄! 教室始まって以来の一番の熱戦だった、と先生から誉められた。 もう少しで自分が勝てそうな筈だが、その筋が見えてこない。 すると、山沢クンが悔しそうに、→こうやって7手詰めだよ、と翔太の勝ち筋を教えてくれた。 本当の実力者は違うナ、と感心した。 →プロの世界では必ず決着が着くが、子供教室だからこの勝負は時間切れ引き分けとします、と先生が宣告した。 初段認定の授与式に来ていた翔太の両親もこの将棋を見守っていた。 みんなの前で、→野崎翔太殿、あなたを朝霞こども将棋教室の初段に認定します、と先生が賞状を読み上げ、奥さんが有賀先生とのツーショット、両親も入った4人ショットを撮ってくれた。 そのアト、両親と翔太が先生に呼ばれて、→成長のスピードが著しいし、とても真面目です、今日の一局も実に素晴らしい、相手の山沢クンは埼玉県小学生低学年の部でベスト4に入る程の実力者で、来年には研修会に入って、奨励会合格と、更にはプロの棋士を目標にしています、一方で野崎君はまだまだ伸び代があります、これまで以上に応援してあげて下さい、と将棋の世界を何も知らない両親を驚かせていた。 勿論、翔太自身も認めて貰った事に有頂天になった。 奨励会試験に合格するにはアマ4段の実力が必要で、奨励会に入ってもプロになれるのは20%以下だと言う、そんな困難な苦しい道でも絶対にやり抜いて見せる、と翔太は秘かに誓ったのだった。
12月の千駄ヶ谷将棋会館、中一の小倉裕也は、→負けました、と頭を下げた。 相手の中2・D2の野崎君が気遣って、→感想戦、する? 付き合うよ、と言ってくれたが首を振った。 今年の8月、ひとつ年下の藤沢君も奨励会試験に落ちたが、彼はB2、自分はD1と格差が付いてしまった。 B1になれば奨励会試験はまず合格するだろうと言われているし、A2になれば8月の試験を待たずして奨励会に編入出来る。 今日の連敗によってD2への陥落危機が迫って来た。 此の儘では野崎君同様、奨励会試験に合格するのは絶望的だ。 哀しくて思わず父の携帯に電話した、父は高校の教頭で土曜日の今日も、部活動の緊急時対応の為に出勤している。 母は小学校教員だった。 →D1とD2の相手に連敗した、オレ、もう駄目かもしれない、と弱音を吐いた。 裕也の6つ上の兄・秀也は国立大学に現役入学した、家族が誇る頭脳明晰な人だった。 裕也は将棋に打ち込み過ぎて学業が疎かになり、成績が急降下していた。 裕也は知らぬ内に出来過ぎる兄と競い合っていたのだろう。 将棋会館には父が迎えに来ていた、→負けたのか、もう、プロを目指すのは辞めなさい、少し、将棋を休みなさい、此の儘だと君は取り返しの付かない状態に陥る、将棋は辞めなくてもイイが一生を掛けて指せばイイ、2年と2ヶ月、よく頑張った、高校も大学も将棋部があるところがイイ、裕也一人で苦しませて父さんも母さんも申し訳なかった、と謝られた。 素晴らしい両親だ、と思ったら、涙が溢れた。 母が出迎えてくれた家に帰って、→オレはもう棋士になれない、でも、将棋が好きだ、と思ったら気が休まって深い眠りに落ちた。
横浜市の日吉悦子の娘・葉子は小4で、今年のお正月に将棋を始めて8ヶ月余りである。 今日は年一回の、港北こども将棋教室の大会だと言って出かけて行った。 それが30分前に電話が来て、→次の対局に勝ったら優勝だから区民センターに来て、親子の写真をブログに載せるんだって、諏訪先生から言われたから必ず来てね、と吃驚する話である。 確か、中学生もいる筈なのに小4の葉子がどうして優勝?と思いながら、私鉄の運行管理センター勤務の、半分は夜勤の多い夫の顔も浮かべながら、自転車で急ぎ、向かった。 試合場の壁に模造紙が貼られていて、Aクラス6人の内、1級が5人、2級に日吉葉子の名前があって、ここまで葉子が4勝0敗だった。 今、対局中の男の子も4勝0敗だった。 もし、負けても葉子は泣かないで欲しい、と思いながら見守っていた。 すると男の子が軽く手を突き、葉子が莫迦丁寧にお辞儀した、負けたのだ、と悦子は思った。 ところが目立たないように葉子がこちらにⅤサインを送って来た。 逆だった、アトから葉子が言うには、6年生が4年生に負けて悔しくて、負けましたと言わなかったので、こっちは余計に丁寧にお辞儀してあげたの、と言うではないか、小4で2級の女の子が、1級の6年生の男の子全員に勝って優勝なんて、この子は天才なのかしら、と母親は胸が歓喜に震えた。 葉子はこれで1級に昇級だった。
葉子は順調だった、小5でアマ初段、8月の将棋教室の大会で優勝して二段、12月に三段とスピード昇級である。 そして2月に千駄ヶ谷の将棋会館で研修会の入会試験を受けた。 3勝1敗、更に二週間後にも3勝1敗の好成績で、D1クラスでの入会が叶った。 小6の4月C2クラス、6月にC1クラス、11月B2クラス、中1の5月にB1クラス、8月奨励会試験の初日は4戦全勝、葉子はキッパリ言った、→次回は誰が相手でも互角の将棋にして見せるから。 女性初の奨励会三段が目の前にある。 諏訪先生の所には将棋の専門誌からの取材申し込みが来ているという。 ただ、悦子は葉子がこのまま手の届かない所に行ってしまうのか、と一抹の不安が過ぎったが、どんな人生を歩もうと自分達夫婦の娘であることに変わりはないのだ、母親である事の幸せを感じながら、我が子の重みを受け止めるのだった。
(ここまで、全273ページの内、165ページまで、このアト、棋士迄もう一歩に迫っている男と教師見習の女の淡い純な恋愛、元・奨励会員だった新聞社の中年男が予想した手を対局者が打つと、何故か、敗着になってしまう、病み上がりのベテラン63才棋士が、新進気鋭の大辻弓彦四段と、今、自分の命が尽きても悔いはない、と死闘を繰り広げる、等々が続く。 将棋好きには堪らない本であろう) (ここまで、5,400字越え)
令和3年10月27日