令和3年(2021年)2月23日 第394回

原宏一「佳代のキッチン」

・・・続きを書き込みたい気持ちが押さえ切れない、この第一巻だけは結末を知って欲しい。

第五話 井戸の湯

東京墨田区押上までアト1㎞の吾妻橋交差点でキッチンカーのエンジンが停止した。 JAFを呼ぶしかないか、修理賃も堪えるなァと覚悟したら、→佳代ッ! 佳代だよな、オレ鉄男、判るよな、と声が掛かった。 人力車を押す法被姿は小学校時代の同級生だった。 ボンネットを開けた鉄男は、→プラグだな、川向こうのガソリンスタンドまで、押していこう、とキッチンカーを動かした。 点火プラグを取り替えてキーを廻すと、一発でエンジンが息を吹き返した。 →お礼にゴハンをご馳走させて、積もる話もしたいし、と言うと、→いや、このキッチンカーで旨いモノ食べさせてくれ、という事になり、スーパーへ食材買い出しに行った。 鉄男は実家の家業を継いで配管工になったが、不況でヒマな時は人力車を引いて家計の足しにしているらしい。 →スシテンを作ってくれ、小6の時に作ってくれた寿司の天ぷら、って言われて思い出した。 両親が遅く帰宅した時の折詰の寿司が冷蔵庫に入れたまま、翌日の夕方に気付いて、捨てるのは勿体ないので天ぷらに揚げてみたのだった。 予想外に旨かった! たまたま来ていた鉄男がそのご相伴に与ったのだった。 スーパーで売れ残った寿司を仕入れてキッチンカーでご馳走したのは言うまでもない。

 

翌日の夕方、藤之湯を訪ねた、ず~ッと通っていた銭湯だったが、両親から見棄てられたと知られたくなくて、それからは遠い銭湯に代えた、番台の女将さんも、誰もが顔見知りだったからそんな目で見られるのが辛かった。 下駄箱に靴を預け、→お久し振りです、と15年振りに女将さんに声を掛けた。 →やだ、佳代ちゃんかい、えらくまァ、別嬪さんになっちゃって、と驚きの声だった。 此処には井戸水があるし、玄関前には広いスペースがある。 佳代のキッチンの説明をして営業したいとお願いすると、この近所はお年寄りが多いから喜ぶかも、と快く承諾してくれた。 →泣き虫・和馬君は? →今、新聞記者です、→ありゃ、出世したモンだねェ、と目を細めて微笑んだ。 翌日から店を始めると、吉永さんが最初のお客で、→あらアンタ、佳代ちゃんかい?となって宣伝してくれたから、予想以上の盛況となった。 かっての同級生、エリカとマヤは結婚してこの町に住んでいるらしい、鉄男から訊き込んだらしく、スーパーの二割引き寿司を持ってきて、これでスシテンを作ってほしい、となり、この話が飛び火して、銭湯のお客に瞬く間に拡がっていった。 昔住んでいた里中荘は大きなマンションになっていて、大家さんの里中さんは、今は亀戸に住んでいるらしい。 寝泊まりする場所は荒川の河川敷、結構実入りもいいから、夜8時に閉店、藤之湯に浸かってゆっくり晩酌を楽しむ時間が最高だった。 ・・・里中荘を買い上げて貰ったから亀戸の里中家は大きな一軒家だった。 インタホーンを押して、→押上のアパートでお世話になった佳代です、と言うと、カメラで顔を確認したのだろう、→まァ、佳代ちゃん、何処でどうしていたのよッ!ず~ッと捜していたんだから、と白髪のお婆さんになった里中さんが現れた。 両親が帰ってこなくなってからも里中さんにはどれだけ助けられたか判らない、変に騒ぎもせずに、淡々と、→大丈夫よ、佳代ちゃんさえしっかりしていればちゃんとやっていけるから、と励ましてくれたモノだった。 →わたしも三十路に入りました、私達の両親についていろいろ教えて下さい、と頼み込んだ。 →本当の事を聞く覚悟があるのね、と真相を話し出してくれた。 佳代が2才の時、一家は里中荘に引っ越してきた。 その部屋に色々な人が入れ代わり立ち代わり出入していたが、和馬が誕生してそれは終わった。 里中さんは、佳代のお母さんから、→最初の子は誰の子か判らない、今の主人かも知れないし、別な人かも知れない、でも今は間違いなく私の子、そして和馬は確かに主人の子、と松江のコミューンでの生活を赤裸々に打ち明けられたらしい。 佳代が、もう自立できると判断して里中荘を引っ越した時、過去を捨てて生きる、とばかりに里中さんには引っ越し先を伝えなかった。 数年後、両親から里中さんに郵便が届いた、→今まで横須賀にいたがこれから盛岡へ向かう、子供にこれを渡して欲しい、と500万円の預金通帳が同封されていた。 佳代には衝撃的な話だったから落ち込んだ気持ちで和馬に電話すると、姉の異変を察知したのか、→姉ちゃん、今夜は俺ンところに来いよ、と言ってくれたので、世田谷の、新聞社借り上げのワンルームマンションに着くと、ビールを勧められて、堰を切った様に里中のお婆ちゃんから聞かされた話を弟に告げた。 和馬も佳代も、→わけわかんないな、あの夫婦、と同じ意見だった。 →姉ちゃん、もう辞めないか、両親捜してもロクな事にならない、と諫めるも、→両親がどんな滅茶苦茶をやったのか、確かめに盛岡に行く、と宣言したのである。

 

第六話 四大麺

盛岡の湧き水は賢治清水、宮沢賢治ゆかりの名水で、蛇口が並んでいて誰でも汲む事が出来る。 そこから1㎞離れた盛岡冷麺発祥の「食楽園」の向かいの空き地で営業を始めた。 もう20日になる。 12月に東京・押上を出発し、途中、3月の末まで宮城・仙台で営業、もう雪は大丈夫だろうと盛岡にやって来たのである。 「食楽園」の冷麺は旨かった、思わず声を掛けたらその人が二代目だった。 調理屋の説明をすると、気軽に厨房に入らせてくれて、麵生地の捏ね方やスープのとり方まで快く見せてくれて、→向かいの空き地でやったら、と親切にされたのだった。 

スーパーのアルバイトらしき女高生が麺の試食を差し出していた、可もなく不可もなく、中途半端な味がする。 →佳代のキッチンの佳代さんですよね、料理はホントに美味しかったです、私、美加って言います、この中華麺、開発途中のオリジナル麺なんです、どうか、助けると思って意見を訊かせて下さい。 お客さんであれば無下にできない、明日の夜、キッチンが終わる8時以降にもう一度試食を約束した。 夜、美加は麻衣ちゃんと連れ立ってやって来た、地元産の「ゆきめぐみ」という小麦粉の品種らしい、この粉で絶品種を作るのが夢だという。 持参してきたラーメンスープは良かったがやはり麺と馴染まずイマイチである、→佳代さん、また試食してください、次は絶対うんと言わせますから、と執拗だった。 ・・・和馬からの情報は、盛岡で農業を学んだ宮沢賢治は、農民たちの理想郷を夢見ていた、松江のコミューンと似ている、両親はそれを求めて盛岡に来たのかも知れない、と佳代は考えた。 今朝も賢治清水で汲んでいると制服を来た麻衣がいた、→美加のお父さんが食肉会社でリストラに遭って、美加は学校を辞めて生活費をアルバイトで稼いでいるんです、お母さんは10年前に亡くなっていて父一人娘一人の生活です、お父さんは職探しは辞めて麺で出直す、と宣言して今、中古の製麺機を譲り受けて開発中なんです、ぜひ、力を貸してやって下さい、と涙交じりにお願いされた。 冷麺、じゃじゃ麺、わんこ蕎麦の三大麺に対抗できる新しい麺の開発、佳代は溜息が出た、同時にそこまで腹を括って父娘が格闘しているのは自分に較べて羨ましい限りである。 ゆきめぐみの事を二代目に訊くと、→無農薬でゆきめぐみを頑張っている梶原夫婦を紹介しようか? 全国を放浪した挙句に盛岡に辿り着いた人さ。 謙虚さの塊のような二代目に甘えたくなった、→実は私は両親を捜しているンです、とチラシを差し出した。 ・・・何と! 二代目が見せたチラシに梶原さんが、→そっくりな二人を知っている、10年前に「小宮山農園コミュ」に弟子入りした時に、この二人は恩人ですと小宮山さんが話していた、小宮山さんは今、ドイツへ視察旅行中だった。 ・・・帰国した小宮山さんの方から佳代を尋ねて来た、→佳代さんだね、大きくなったねェ、20年以上前、押上のアパートで抱っこして寝かしつけた事もあった、と相好を崩している。 →松江のコミューンでポニー&クライドの頑張りを見て居なかったら、故郷の盛岡に帰って来た私の成功はなかった、二人は大恩人さ。 ・・・ラタトゥイユと、開発された新しい麺の相性の良さ、佳代が賄いで作っていて「ラスタ」と勝手に名付けていたメニュー、美加さんのお父さんは、→土地の水で作ると、土地の風土に合った、土地の人の口に合う料理になる、といった佳代さんに習って賢治清水で練り込んだらこの味になった、ラスタを商品登録し、梶原さんと無農薬ゆきめぐみの専属栽培契約を締結した、と発表した。 すると「食楽園」二代目が宣言した、これからは冷麺、じゃじゃ麺、わんこ蕎麦、ラスタ麺の四大麺として盛岡で大々的に売り出そう! 

これで後顧の憂いなくニセコに行ける、有島武郎の逸話は、ニセコに広大な農地を持っていた有島の先祖だったが、武郎はそれを小作人に解放して理想の農業を目指したのである。 宮沢賢治も大いに影響されたと聞き及んだ両親はニセコに旅立ったらしい。

 

最終話 紫の花

夜半に青森をフェリーで出港して4時間、函館港である。 20人程のトラック運転手と同じ船室だったが、無精髭だらけのおじさんが声を掛けてくれた、→無事だったか、ねえちゃん、昨夜、→うかうかしてるとやられっぞ、と冗談で笑わせた人だった。 釜谷と名乗った運転手は、→新川町の自由市場でとっておきの朝めしをご馳走する、と言うのでトラックのアトから追いて行った。 市場の一番奥に、「自由海亭」という食堂があった。 →タエちゃん、いるかい、と市場の誰にでも親しく挨拶を交わしていた釜谷さんが、ころころに太ったおばちゃんに、→魚介めし、食わせてやってくれ、と注文した。 大きな皿に炊き込みゴハンのような料理が豪快に盛り付けられていた、ぶつ切りにした魚の数々がゴロゴロ転がっている。 →美味しいッ! 佳代は思わず声を上げた。 釜谷さんに礼を言って別れると、タエちゃんにチラシを出して、→両親を捜しています、ご存じありませんか? →あら? と呟いたが、ふと目を逸らし、他人の空似かも、と首を振った。 そして申し訳なさそうに、→ゴメンナサイね、やっぱり違うみたい、と言い切られてしまった。 函館港の埠頭で途方に暮れていた、函館朝市は観光客だらけで店の人も10年以上前の尋ね人など覚えていないだろう、銭湯でも廻ろうかな、と思い悩んでいた時に、携帯が鳴った、→釜谷だ、タエちゃんから聞いた、ちょっと話してェが何処にいる? 間もなく埠頭に釜谷さんのトラックが現れた。 冷凍倉庫の構内に入り事務所で向き合った。 →親御さんをさがしているンだってな、タエちゃんから事情を聞いてくれと頼まれたのさ、 佳代はこれ迄の経緯を正直に全部話した、これからニセコに向うけれど、その前に少しでも痕跡を追いたい、と。 すると、→実はタエちゃんはあの二人を知っている、10年前、1週間ほど函館にいた時に、魚介めしもこの二人から教わったそうで、タエちゃんの人生を大きく変えてくれた大切な二人らしい、10年もの月日が経って突然訪ねて来た娘を警戒した、迂闊な事は喋らない方がイイ、しかし、本当に娘さんだったら、と後悔して釜谷さんに相談したのだった。 →ここまで触れあったなら俺にもひと肌脱がせてくれ、道内の運転手仲間に声を掛けてみる。

 

函館山の中腹の4階建のマンションの三階がタエさんの部屋だった、凄く眼下の見晴らしがイイ。  函館湾が一望である。 二年前に息子が独立して以来、一人暮らしだった。 自由亭は夫と二人で切り廻していたが夫が病に倒れて他界、小学生の子供を抱えて必死にやっていたがついに閉店を考えざるを得なくなった時に、この二人から教わった魚介めしが大評判となり、このマンションも購入できた、全く、大恩人なんです。 ワゴン車で弁当を作って売っていたの、それが魚介めし、1週間でいなくなる時に必死でお願いしたの、このレシピ、譲って下さい、自由亭のメニューにしたい、店が潰れそうなんです、と切り出すと、呆気なく、どうぞ、と赦してくれたの、本当に有難かった。 恩人と言ったのは盛岡の小宮山さんに続き二人目だった。 →でも私と弟の和馬は置き去りにされたの、と悲しそうに言うと、タエさんは吃驚して、→いつの日か家族で暮らしたい、と二人が言っていたと言い切った。

 

倶知安の駅前でタクシーの運転手が魚介めしを食べた事がある、10年位前かなァ、とその味を思い出していた。 →有島農場記念館でワゴン車を見かけたなァ、との事だったので記念館に行くと、→農場のトキタさんなら知ってるかも?と言われた。 紫の花で埋め尽くされたジャガイモの畑を横目に登って行った。 80代近い深い皺のトキタさんは、ボロボロのジーンズの二人と会話をしたそうだ、10年前を思い出しながら、→理想郷を捜し続けてここまで来たと言うけど、もう、それでイイんじゃないか、辿り着くもんじゃなくて、自然とそこにあるものじゃないか。 →この辺りを見渡してもいいですか? と許可を得て、丁寧に会釈して二人肩を並べて紫の花が敷き詰められた畑の中を羊蹄山に向って軽快な足取りで歩き出し、ロングヘアをそよ風になびかせ、煌めく陽光の中、微笑みを交わしながらどんどん歩き去った、・・・で、其れっきりだった。 農道に置かれたワゴン車もその儘で、ワゴン車を放棄して何処かに行ったのか、散策の途中で不慮の事故に遭ったのか、原生林に迷い込んでしまったのか、あるいは神隠しと言うやつか、何時まで経っても二人は戻って来なかった。 車のナンバーから東京中野区の名義人が判り、夫婦の仲間が中古車を提供した事が判明したが、その人によって廃車処分にされた。 佳代は呆然とした、この地で両親が消えた、厨房室に崩れ落ちた佳代は、声を上げて泣いた、うえ~ん、うえ~ん、とまるで幼子の様にいつまでも泣き続けた。

 

さかもと公園の水汲み場、甘露水と名付けられている。 ポリタンクにたっぷり汲んで4㎞先の農場に向った。 お昼に魚介めしを振舞う事になっている。 トキタさんからジャガイモ畑を解放して貰い、そこで両親が商っていた味を再現する。 前日、札幌に一泊した和馬も到着している、乗せて来たタクシーの運転手から貴重な情報を得たから、→ぜひ、召し上がって、と待ってもらっている。 釜谷さんや情報をくれた仲間、タエさん、有島農場記念館の女性館員達も来る事になっている。 

 

佳代は決めていた、これからは毎日化粧する、佳代のキッチンを続けて調理屋で生きてゆく、ずっと両親を追いかけて来て、気持ちはあの両親を受け入れるまでになれた、この涼しいニセコが故郷と思ってもイイではないか、両親が眠る土地と決めてアトから何回も来ればイイ。 魚介めしが出来上がった時、→泣くな、佳代、と釜谷さんから言われて始めて自分が涙を流している事に気付いた。

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              令和3年2月23日