令和2年(2020年)7月27日 第343回

10回目の図書館、4冊返却、4冊借用。 4月に寄贈した礼状が届いていないと問い質すと、何と、匿名による寄贈、として処理されており、「作家○○の○○という作品」他9冊と言う記録しかないとの事。 一回で10冊×二回、何れも手入れの良かった、楡周平5、相場英雄5、東野圭吾6?、池井戸潤4?であったが、その一冊、一冊の題名の記録は無いそうだ。 更に必ずしも寄贈を受けた図書館に置くのではなく、一定のルールによって市内全ての図書館に振り向けるそうな。 何時までも来ない礼状を待っていた身としては、匿名による寄贈なんて全然、頭に残っていない。 ・・・図書館怪しいなァ。 それともこちらが呆けてきたのか?

 

 

 

山口恵以子「食堂のおばちゃん」(文庫本、単行本は2015年)

(この文庫本シリーズは手元に4巻あり、調べると6巻まで発刊されていた、買ってこなくちゃ。 以前のyahooのブログでUPしている筈だが、ほのぼのストーリーなので全巻ともタイミングを見ながら書き込んでいこうと思う)

 

「三丁目のカレー」

佃大橋を渡り地下鉄大江戸線・月島駅の近く、佃の大通りに面した「はじめ食堂」は、昼は定食屋、夜は居酒屋を兼ねる。 「一」と書いて「にのまえ」と読む。 倉前二三が困惑したのは26年前、「結婚したら、私、一二三になっちゃうの」 夫になる高が言う、イイじゃないか、母さんなんか、一一子だぜ。 銀座のホテルで修業した一孝蔵が裏通りのラーメン屋の看板娘だった6才下の一子と結婚したのが64年前、独立して、この生まれ育った街に洋食の店を開いたのが50年前、しかし、30年前、孝蔵が心筋梗塞で頓死した。 58才だった。 イキナリ閉店の危機に瀕したが、一人息子の高が、勤めていた一流商社を退職して店を継いだ。 高はその前年に若くして妻を癌で亡くしていたが、看病を理由に海外転勤を断って左遷の憂き目に遭っていた。 商社マンから食堂のオヤジに転身した大きな理由である。 洋食のプロを失った洋食店の継続は難しく、止むを得ず、一子と高は街の食堂に切り替えたのであった。 二三は丁度その頃、銀座の大手デパートに就職して三年、25才の時に通勤が便利で、家賃が身分相応に安いここ佃に引っ越してきた。 風呂無しの四畳半一間であったが、銭湯・日の出湯に通い、夕ご飯は毎日はじめ食堂で食べた。 そして妙な成り行きで高と結婚、デパートに勤めながら娘の要を生み、キャリアウーマンの出世階段を上り続けた。 ところが10年前、夫の高が父と同じ心筋梗塞でこの世を去った。 父より若い53才だった。 はじめ食堂に第二の危機、それを救ったのが二三の決断だった。 デパートを辞め、一子と一緒に食堂で働くことにした。 衣料品のバイヤーとして、業界でも屈指の存在として知られていたが迷いはなかった。 この食堂こそ、二三のたった一つの家だった。 あれから10年、今や、遣り手のキャリアウーマンの面影はなく、何処から見ても食堂のおばちゃんである。 只、以前は「きつい」「険がある」と囁かれた顔付が、「優しそうな人」になって、意外なほどに自分に合っていた事を感じ入っていた。 今年82才になる姑の一子は益々元気に働いていて確実に15才は若く見える。 かっての「佃島の岸恵子」と謳われた美貌も健在である。 嫁と姑、普通は様様な思惑が入り乱れ、それなりの軋轢が生まれる筈だが、実は凄く仲がイイ。

 

近所の酒屋の若主人・辰巳康平との食談義中に、「夏の冷や汁」の話を聞いていた新顔の紳士が、「えッ、冷や汁、中身は何ですか?」と食い付いてきた。 全身、高価なブランドで固めた男が週二回、どうしてこんな安い食堂で酒も飲まずに夕飯を食べているのか、不思議なお客だった。 ここの冷や汁はネ、ご飯か素麺を選べるんですよ、と康平が言うと、ゴクン!と喉を鳴らして、母が九州出身だったんです、と呟いた。 6月から始めますから、ぜひ、どうぞ!と二三は愛想良く言った。

 

はじめ食堂は夜9時閉店、出版社に勤める二三の娘の要は何時も帰宅が遅く、今日も食堂の残り物から好きなモノを選んで食べている。 夜遅いので二三と一子は要に軽く付き合っている。 昼の紳士はきっと、超高級マンションに引っ越して来た人ではないか、と三人の意見が一致した。 佃にはタワーマンションが何棟も聳え立っている。 石川島播磨重工業の空き地にバブル期に建設された高級マンションである。 高級スーパーやスポーツジムも進出し、有名人も姿も結構見かける。 佃はそんな街に変身していた。 恐らくそんな一人だろう、と結論付けた。 ・・・翌日1時過ぎ、30才そこそこの暗い表情の美人が入って来た。 雑誌のモデルかな?と二三は思った。 奥のテーブルには常連客のタワーマンションの住人、三原茂之だけだった。 三原はこの10年、毎日、昼定食の常連だった。 今70代半ばで、奥さんを亡くした時にそれまでの家を売ってタワーマンションに引っ越してきた一人暮らしと、聞かされている。 新顔の女性の注文の煮魚定食を受けていると、立て続けに二人入って来た。 混んでいる時間を避けてくれる有難い常連さんで、野田梓は銀座の老舗クラブのチーママで二三と同年代、赤目万里は要と小・中・高の同級生で、大卒入社した機械メーカーを一年で退職し、今は作家を目指している?フリーターだった。 父は中学校の校長、母親は高校教師で、齧り甲斐のある脛を持つ両親に恵まれているせいか、人生に対する危機感は皆無である。 新顔の若いお客は美味しさに満足したせいか、穏やかな顔つきになって「ごちそうさま」と出て行った。 野田梓は昔のデパートで二三のお客様だった。 二三も梓のクラブで取引先の接待をした。 ・・・二三が築地の仕入れから戻ってくると9時半、テレビのワイドショーでIT企業のオーナー・藤代誠一の離婚問題が報じられていた。 映し出された男は、今や、週三で夜ご飯を食べている全身ブランドのその人だった。 こんな大金持ちが何でこの食堂で?と、益々不思議である。 そういえば、新顔だったモデルのような子も、毎週火曜日に定食を食べにやって来た。 二人は秘かに「かよ子さん」と呼んでいた。 今日も、どちらの定食も旨そう・・・と悩んでいるので、ハーフ&ハーフにしてあげましょうか?と、常連さんへの特別サービスを提案すると、顔がパッと輝いて心底嬉しそうであった。 奥で三原も梓も以前から同じサービスに与っているので気持ちが良く判ると納得顔だった。 「毎週火曜日、ありがとうございます」と声を掛けると、「火曜日は銀座で懐石料理を習っている帰りなの、けどこっちの方が何倍も美味しいわ」と、満足感いっぱいで帰って行った。 その夜、藤代はおすすめメニューの「オムライス」をオーダーした。 夜も週一で出しているが藤代は必ず注文する。 「カレーライスはやらないんですか」と問われたが、時間がかかり過ぎるので今は止めていた。 藤代は常連客とカレー談議に花を咲かせている。 「魚政」の山手政夫は50年来の常連、後藤輝明は山手の友人、そして酒屋の若主人・辰浪康平も加わった。 蕎麦屋のカレー、ボンカレー、カレー粉etc、賑やかなカレー談議だった。

 

翌火曜日、かよ子が、ここには夜の女性のアルバイトが来るの?と訊かれたが、いえ、私と義母さんの二人だけですよ。 かよ子は納得しない顔で帰った。 その夜、藤代がカキフライ定食を注文すると、珍しく早く帰宅した要が二階から降りてきて、「藤代社長、今日は有難うございました、ここ、私の実家です」 驚く藤代だったが、その時、血相を変えたかよ子さんが怒鳴り込んで来た。 「嘘つき! ここでこの女と会っていたのね」と震える声で言い放ち、「嘘つき!」と又も叫びながら泣き出した儘、走り去っていった。 「誤解だ、マナ!」と藤代も追いかけて行く。 店の客の誰もがこの修羅場に唖然としていた。 ・・・閉店間際に藤代が戻って来た。 「誠に申し訳ありません、お恥ずかしい限りです、面目次第もありません」 藤代が語るには、15年前に糟糠の妻を乳癌で失った。 しかし、去年、財閥企業の御曹司と離婚した日立真那と出会い一目惚れして結婚した。 それまでに都内の有名レストランや料亭でご馳走三昧をして、50才まじかの自分としては結婚までこぎ着けるのに必死でした。 しかし、本当はここの食事のような食事が好きで、今更、サバの味噌煮が食べたい、などとても言い出せませんでした。 真那の作る料理は上品な京料理とか、フランス料理のフルコースとか、素晴らしいモノばかりなんですが、でも、家では昔のような家庭食が食べたいんです、だから、次第に嘘を吐いて帰宅を遅らせて外で食べるようになりました。 偶然入ったここの食事は絶品でした。 ・・・二三は言った。 「奥さんは何時も何かを悩んでいました、今お話を伺ってやっと判りましたよ、ご主人が週三も 外で食べてくるのが不安だったんでしょう、明日、お二人でここにお出で下さい、お力になれるかもしれません」

 

翌日2時過ぎ、二人揃ってはじめ食堂に顔を出した。 真那の話は「この人が浮気をしていると思って興信所に頼むと、ここに通っているのが判って。 浮気相手が働いていると思っちゃって。 済みませんでした」 二三は「前のご主人が素敵な方だったから、藤代さん、コンプレックスを感じていたのよ」 すると、真那は「とんでもありません、前の結婚生活は地獄でした、私は自殺に追い込まれたんです。 前の主人は、育ちが悪い、知性が無い、教養・品が無い、テーブルマナー、態度物腰、口の利き方、歩き方、・・・毎日あげつらってモノを言い、挙句には怒鳴り散らしました。 私は3か月間で10㎏も痩せて精神的に追い込まれて睡眠薬を飲みました。 命は助かりましたが、精神を患っている女は当家の嫁に相応しくない、と犬でも捨てられるように放り出されたんです」 「そういう異常性格者と別れられて本当によかったわ」 「前の主人の事があったので、今度は兎に角、嫌われないようにしようと必死だったんです」  「イイお話です、きっとお似合いの夫婦よ」 「これ、お二人にお土産、昔ながらのあまり美味しくないカレーです、ご主人が大好きだって・・・」 「ほんとうにありがとうございました、お心遣いは一生忘れません」

 

「お母さんの白和え」

二三が小6の時、母は膵臓がんで若過ぎる36才で亡くなった。 中二の時に父は再婚した。 29才の初婚の方だった。 翌年に男の子、更に翌年に女の子を生んだ。 二三は意地悪もされなかったし、義母はなさぬ仲の娘を差別しないようにあれこれ気を遣ってくれた。 大学まで出してくれた両親に心から感謝している。 しかし、中卒の頃には、年の離れた弟・妹にも家にも馴染めず、自分に帰る家は無いと感じていた。 だから就職した時、直ぐにアパートを探して家を出た。 そして25才でここ佃に引っ越して来た、銭湯の帰りに入ったはじめ食堂は、何故か、懐かしい気持ちがした。 当時、52才だった一子が作ってくれた白和えが、亡くなった母の味と一緒で、思わず涙が溢れた。 一子に母の面影を見た。 はじめ食堂で毎日の晩御飯、日・祝が休日だったが、デパートは土・日・祝は休日では無かったので、はじめ食堂の開いている時は皆勤賞モノだった。 三月も経つと「ふみちゃん」と呼ばれるようになり、女主人は明るく親切で正直で涙もろく、気働きがあって曲がった事が大嫌い、本当に母とそっくりだと思った。 一子もまた、二三が抱える孤独に気付いていたようだ。 高は口数が少ないが聞き上手で、相槌も上手で、本当に上手に相手の話を引き出していた。 名人級のキャッチャーにボールを投げて確実にふんわりと返してくれていた。 二三はその内、トレーダーの上司のお供で、ニューヨークへ出張した。 高も過去に出張があったらしく、話が弾んだ。 出張する前の日本のご飯、帰国して初めての日本食、どちらも必ずはじめ食堂だった。 はじめ食堂に行く度に浮き浮きした。 出張帰りの度に珍しいモノ、失敗談等々、聞いてくれる人に話せるのはとても幸せな経験だった。 ・・・はじめ食堂デビュー5年目の春に、「タカちゃん、どうして再婚しないの?」と尋ねた。 妻を癌で失ってから、ず~ッとやもめを通している高の事は常連は皆知っていた。 一子が答えた。 「ウチみたいな個人の自営で母一人、子一人は条件が悪いのよ、アジアの子を世話しようかといわれているの」 二三は本気で驚いた。 高となら会話が弾む、これは大した才能だし、ましてや一子の息子である。 その頃の二三は不毛の恋の呪縛から解放されたばっかりだった。 恋の魔法が解けると、それは、相手が信ずるに足るか否か、その一点だけだった。 「そんなら私がいこうか?」 えッ、一子は身を乗り出して、「ホント! ふみちゃん、本当に来てくれるの?」 「うん、行く」 昼の1時30分、店にいたのはチーママになる前の野田梓だけだった。 「ふみちゃん、流石! お目が高い」と拍手をしてくれた。 一子は二三の手を握りしめ、「有難う、ふみちゃん、あたしもふみちゃんを高の嫁さんに貰えないかって、ず~ッと思ってたの」 涙ぐんでいた一子を見た時、不意に、私が長い事探し求めていたのはこれなのだと判った。 帰れる家と家族、高志を夫とし、一子を母として自分の家族を作るのだ。 ・・・昔の事にほんわか思いを寄せていた時、魚政の主人で後藤の親友の山手政夫が言った。 「いっちゃん、ここ最近、後藤来てる?」 

・・・ここからお世話がせな騒動が始まった。

(ここまで全221ページの内、71ページまで。 このアト、③オヤジの焼き鳥、④恋の冷やしナスうどん、⑤幻のビーフシチュー、と続く、各編、感動モンが嬉しい) (ここまで約5,600字)

 

・・・やったぜ! 一か月間で、UP11の快挙!

 

                     令和2年7月27日