令和2年(2020年)7月22日 第340回

占冠村の同い年のAからのお中元は富良野メロン、今回も良く熟れていて甘い。 有難く毎日朝食のアトに頂いている。 花巻市の4期下のKさんからは勤め先のハムソーセージ、コロナ未だにゼロの快挙を称えると、県民の合言葉は、第一号になるな!らしい。 結構な事だ。 知事迄もそれに乗っかって、「誰かが一号になっても消して責めるモノではありません」と、やんわり皮肉を効かした予防コメントであるらしい。 アトは静岡の娘から。 この三人が現役引退した自分に贈ってくれる有難い方々である。 

 

 

 

山本一力「ずんずん!」(単行本・2016年)

纏(まとい)ミルク店は明治初めの創業、初代は火消し「は組」で鳶職の棟梁だった。 鳶工事で出入していた外国人宅で旨そうに飲まれていたミルクを見て、これからは日本人も飲むようになる、と先見の明があったからであった。 数えて今は4代目・纏慎太郎が本店を指揮し、息子・亮介と妹のあかねが浜町店を受け持っていた。 正月6日・月曜日、午前4時、浜町店の事務所に勢揃いした10名が、神棚の前で「おめでとうございます」と新年の挨拶が交わされた。 焼いた切り餅を二つに切って、あかねが調理した雑煮の椀に入れて、「いただきます」 声を合わせて旨い味を噛み締めた上、年の初めの配達・8人の出陣である。 最年長・田代龍平は72才、67才の時、食品配送管理の仕事を退職してこの浜町店開店に応募した。 面接した亮介は、「田代さんが最初の応募です」と採用を即決した。 新規店にとって願ってもない配送管理の職業スキルだった。 田代の配送先は個人宅・170軒、一日当たり牛乳2本が過半数を占める、一人暮らし・毎日1本がそのアトに続いている。 田代は月・水・金を選んでいた。 月曜には月・火分、水曜日は水・木分、金曜日は金・土・日分となり、金曜日の本数が1.5倍になる。 冷凍庫から保冷剤・170枚を取り出して配達本数も確認する。 冬であっても保冷材は欠かさない、田代の牛乳屋としてのポリシーである。 今年最初の牛乳配達用のジャイロに乗って田代は発進した。 およそ20分で最初の拠点に到着、ジャイロから取り出した20本を帆布製のバックに入れる。 40本は入るが、重さ的にはこれが適量、身動きが鈍くならないように・・・。 空瓶を回収して何度でもジャイロに補給に戻る。 一軒一軒、今年もよろしくお願い致します、と心うちで囁いて廻る。 何処もまだ熟睡中かも知れない。 田代の奥さん・良子は9年前に急逝した。 娘と息子は既に家庭を築いていた。 住み慣れた家を息子に譲り渡し、自分は賃貸マンションで一人暮らしを始めた。 一人で、4人で暮らしたあの家に住むのは気持ちが塞ぐ、それを切り替えたかった。 この仕事も、まだまだ、自分を必要としてくれる実感を得られるから続けて来た。 次は一人暮らしの湯川さん、去年の最初の配達で保冷ボックスを開けると田代宛の年賀状が入っていた。 「田代様 本年もまた配達して下さる牛乳で私も息災に過ごせます 湯川かおる」と、流麗な筆文字で小さな絵も描かれていた。 今年も入っていた。 ・・・7時半、配達を終えて戻って来た。 一番年若い栗本が、湯川さんの年賀状、見せて下さいとねだると、亮介・あかね兄妹も寄って来た。 馬が9頭の画、うまくいきますようにと言う意味で版画家の真似をしました、今年も上手く行きますように、と結んでいた。 栗本は感じ入っていた、「素晴らしいひとですね、湯川さんて」 「そうだ、回収する牛乳瓶も必ず綺麗に洗浄されている」 ・・・7時45分、店先から「おはようございます」と元気な女性の声がした。 30代前半に見える女性はアルトの声で「おめでとうございます」と挨拶し、 応対した亮介も「いつものでよろしいですか」と応える。 女性は手渡された牛乳瓶のシールを剥がし、朝の光を浴びながらゴクゴクと数度の息継ぎで呑み切った。 亮介は不躾にならぬよう彼女に見とれていた。 美しく牛乳を飲む女性を何と表現すればいいのか。 背筋をまっすぐに伸ばし、このアト、恐らく職場に踏み出す歩みは、ずんずん!と小気味よい音が聞こえて来そうだった。 ほのかな恋心、名前も知らない女性だったが、毎朝、亮介の胸は弾んでいた。

 

実川(じつかわ)玉枝は人形町の「奥野デザインセンター」事務所まで、徒歩で通勤していた。 去年の11月下旬、ここ浜町の賃貸マンションに引っ越して来た。 徒歩20分で通勤できるし、夜遅い仕事になっても終電は気にせずに済む、出勤途中、徒歩5分の所に牛乳屋さんもある。 アートディレクターという職業柄、深夜になる事も多く、タクシーを使うよりも、それならここに住めばイイ、と決断したのであった。 玉枝は、8人のグラフイックデザイナーを抱えるアートデレクター(A・D)だった。 事務所には4人のADがいるが、顧客からの実川名指しの件数は5年間もトップを走っている。 東京デザイン研究所を卒業した時、主任講師だった奥野玲子(今年68才)から「うちにいらっしゃい、あなたは遠からず私を超えるわ」と強烈に誘われ、その才能を見抜いた奥野は、最初から自分のアシスタントに抜擢した。 しかし、その指導は今で言うパワー・ハラスメントそのものだった。 「その程度の発想しか出来ないのなら私の眼鏡違いだったという事ね」と容赦なかった。 玉枝は手厳しい言葉のつぶてを耐えてここまで上り詰めた。 正しく鍛えられたそのものだった。 奥野社長には感謝しか無い。 ここの事務所は、日々の厳しさを労う為に夏休みは何時も最低11日間だった。 玉枝は必ず呉市の実家に帰る。 母校にも立ち寄り、呉港を眺望する。 下校道の牛乳屋に寄るとバスケ部の後輩たちが屯している。 玉枝は昔と同じに牛乳を立ち飲みする、女子高生たちはこの人の顔も名前も知らないけれど、絶対私たちの先輩だ、と誇らしげに眩し気に玉枝を見つめる。 就職して4年後、意を決して、彼女たちと同じ髪の短さに美容院を営む同級生にカットして貰った。 以来、今でもショートカットの儘である。

 

田代は帰宅途中の8時半、隅田川に架かる清洲橋で東京湾から昇ってくる朝日に向かって、牛乳を飲む。 「今朝も元気でいられる事を感謝します」 光る隅田川を見ながら飲む朝の一本は格別であった。 1月8日水曜日、今朝も冷え込みがキツイ。 午前6時、湯川かおる宅の保冷ボックスは空だった。 空瓶が入っていない。 こんな事は今まで一度もなかった。 店に戻って亮介に告げた。 「車で行って見ましょう、社長にも報告します」 慎太郎社長は、町内会長で不動産会社を経営している戸田平三郎と小中校の同級生で、慎太郎の妻・真理子も同じである。 お客様カードには、湯川かおる70才、54才の時に、豪州開発の視察時に小型機が墜落した夫と死別、以来、一人暮らしとなっていた。 緊急連絡先として渋谷区富ヶ谷の長女・育子(野田)の名前があった。 8時20分、湯川さんの保冷ボックスには今朝、田代が入れた儘の牛乳があった。 田代が湯川さんの携帯に番号をプッシュしている時、あらッと声がすると、毎朝のお客が驚いていた。 こんなところまで配達ですか? 彼女は難しい色の取り合わせを見事に着こなしていた。 今朝も立ち寄って飲んでくれた筈だが、勤務場所はこの辺りなんだろうか? 田代が携帯が繋がらず首を振る、すると、緊急時を察したのか、「お仕事の邪魔をしてごめんなさい」と、詫びながら去って行った。

 

野田育子さんに電話してこれまでの顛末を話すと、わざわざ母の自宅前まで出向いて下さってるんですか、と礼を言われた。 かおるの躾けのほどが現れていた。 私は固定電話にかけてみます、折り返しそちらの携帯にかけます、と間もなく、「やはり母は出ません、母が心配です、合鍵は戸田不動産さんに預けています、電話しておきます」 田代が、私が受け取りに行きます、亮介さんは近所のドクターをパソコンで検索しておいて下さい、亮介が検索すると何軒もあったので父・慎太郎に問うと、内科なら大下先生、外科なら工藤先生がイイ、との返事だった。 田代はスロージョギングで戻って来た。 一緒に走って来た戸田不動産の息子・常務の若い健吾の方が息を切らしていた。 社長は新年会旅行で不在、間もなく副社長の母親・千鶴子も駆け付けるという。 何かあっても男性よりも女性の方がイイ。 戸田千鶴子が到着して、「湯川さん、聞こえますか?」と入り込むと、「湯川さん、どうしたの!」と大きな声。 湯川さんはトイレにつながる廊下に仰向けに倒れていた。 湯川さん、と呼び続けながら頬を叩くと、やっと、かおるが目を開いた。 あなたは? 戸田の連れ合いですよ、・・・トイレに立った時、転がっていた茶筒にうっかり足を乗せてしまって転倒し、そのまま、気を失っていたらしい。 ちょっとお漏らししたみたい、と失禁を恥ずかしそうに言う。 戸田千鶴子は、亮介に向かってあなたのお母さんに連絡して、と指示、携帯を代わった真理子に小さな声で下着の替えがほしいと、頼み込んだ。 戸田健吾は戸田ビル4階の大下クリニックに連絡して湯川宅までの往診を頼んだ。 曇天の朝9時、浜町店の亮介と田代、本店の慎太郎と真理子夫婦、戸田不動産の千鶴子と健吾母子、大下クリニックの医師と看護婦、総勢8人の姿を目にした斜め向かいの植木職人の女房・田中民子が目を丸くしていた。 健吾が事情を説明していた。 大下先生が出て来た。 「転んだ拍子に後頭部を強く打って脳震盪のような症状でした」 9時15分に工藤医院の寝台車が到着、「腰椎を強く打っていますが骨折には至っていないと思います」 「入院は必要ですが、身体機能に障る心配は無いでしょう」 かおるはストレッチャーに乗せられて寝台車に運び込まれた。 「皆さんには本当にご迷惑を掛けてしまって」と、詫びているところに娘さんの育子さんから亮介の携帯が鳴った。 かおるさんは、「あなたにも心配かけるわね」 入院先の工藤医院の住所を告げ、「入院手続きはアトからご長女の育子さんが参ります」 庭帚を持った儘、成り行きを見ていた田中民子さんの眼には全員に対する敬いの色が宿されていた。 「牛乳箱がカラだったというだけで皆さんはここまでの事をして下さったのですね」 田中さんと戸田千鶴子が言った。 「ウチにも配達頂けるかしら?」

 

その日の昼下がり、実川玉枝は部下の植木みきを伴い、みぞれ模様の中を汐留のビル街に居た。 大型傘のドアマンズ・アンブレラを操る著名なホテルで、そのドアマンから製造元を訊き出して、特別に小売りしてもらった紅白の1mにもなる特大傘、野外撮影の折りに不意の雨に出会った時、クライアントに差し出すと大抵の人は私も一度は・・・と雨を待ち焦がれるようになった。 いま、玉枝は色の失った氷雨降る汐留に、大輪が咲いたかのようなドアマンズ・アンブレラで身を護っていた。 エセックス国際法律事務所の石原弁護士がくれた年賀状に「新年にはいいチャンスが訪れます」とあり、更に今日の訪問を乞われたのであった。 エセックスの30,000通の年賀状を提案したのは玉枝だった。 大きな金額ではないが、受注金額の数十倍の効果がある、と言われている大きな仕事だった。 コンペでは日本サイドのアメリカ人含む全員が玉枝の賀状を支持してくれたが、ボストンの実力者に裏から手を回されて受注は出来なかった。 それでも負けは負け、と言う潔さに石原弁護士は直の事、奥野デザインセンターに肩入れしてくれているようだ。 電話で告げられたのは、純粋にアイデア勝負のコンペ、全米対象の800万ドル(8億円)キャンペーンに参加願いたい、と言う有難い要請だった。 石原弁護士からの電話を終えて事務所でそれを知らせると歓声が沸いた。 ・・・説明会に参加していたのは自社を含め4社だった。 クライアントは日本企業の広報団体、ジャパンセンター・アメリカ(JCA)だった。 エセックスの業務受託料が300万ドル、併せて1,100万ドルのビックビジネスであった。

 

1月9日、みぞれは深夜に降り止んでいた。 今朝も玉枝は牛乳を飲む。 そういえば昨日は何か大変そうでしたね、と問いかけても亮介は個人情報的な事は軽々しく口に出来ない、ええ、まァ、とうやむやな返事である。 しかし、会社で4冊の週刊誌の配達に来た書店の女房が、「昨日の朝、素晴らしい事がありました」と、一オクターブ高い声を張り上げた。 女房の話はこれからの会議にピッタリの美談である。 昨日のクライアントの要求は、日本人ならではの、きめ細かなひととの接し方、日本ならでの文化を判り易い形で米国人に訴求して欲しいというモノです。 ただし、時間は一週間しかありません。 今朝聞かされた話で、牛乳の宅配こそ、日本が世界に誇れる文化だと確信しました。 今回、年配の女性が牛乳配達の方のおかげで命を救われました。 今朝の纏ミルクの若い店長は、口を濁して語ってくれませんでしたが、それだけに信頼出来る人物だったし、その人柄に感銘すら覚えました。 見返りを求めない纏ミルクの尊い行為にこころ打たれたのであった。 (ここまで、全435ページの内、僅か113ページまで、さて、どんな展開になるのか、法律事務所の石原さんは亮介と幼馴染だった、JCAは湯川かおるさんがニューヨーク3年、サンフランシスコ3年、夫が勤務していた時に設立準備を手伝っていた・・・ 中国の古い諺に、小人は縁に気付かず、中人は縁を生かせず、大人は袖振り合う縁も縁とする、とあるが、正しくその通りの、楽しくハッピーな結果は間違いない。 時代モノの多い作家の現代人情噺である)

 

 

 

今日はOさんが来る日、前回借りた本は、図書館分を読み終わって今、やっと一冊目、返却出来ない。 貸す本は2冊は大丈夫だが。 こちらへ貸す為に持ってきたのは、前回借りて今、読み始めた中山七里「カインの傲慢」だった。 ダブルで買ってしまった勿体無さである。 もう一冊は文庫本、柚月裕子「合理的にはあり得ない」 これはこっちも買っていたのだが、読み終わって感じたのは、確かに、以前読了していた記憶。 我が家には無いから、恐らくOさんが買った単行本の筈だが・・・。 お互いにそれなりの年令になった、と言う事にしておこう。

(ここまで約6,00字越え)

 

                            令和2年7月22日