令和2年(2020年)7月8日 第335回

山本甲士「あたり」(2008年単行本・図書館から)

他人を信じたければ、金を貸すがいい。

恋愛を信じたければ、結婚するがいい。

神様を信じたければ、教会に行くがいい。

奇跡を信じたければ、釣りをするがいい。    (ある地方の言い伝え)

 

・・・おいかわ、らいぎょ、うなぎ、あゆ、たなご、まぶな、から成る6連作短編集

 

「おいかわ」

失業中の北畑新吾は、高卒で入社した鉄工場で半年後に態度のデカい上司を殴ってクビになってから、この30年以上、何度も仕事と住む場所を変えて来た。 両親は既に他界しているので帰るべき実家もない。 兄と弟がいるが兄弟喧嘩に明け暮れていたので、微かな繋がりがあるだけだ。 鏡に映る自分の顔は本当に人相が悪い。 酒の上での喧嘩で留置場に入った事も2回ある。 ドアチャイムが鳴った、長身の若い男が、「あの~、北畑新吾さんでしょうか? 私、フカミゾリキオと言いますが」 整った実直そうな顔で女にもてそうな・・・。 「北畑さんと幼馴染のフカミゾアツオの息子です」 小学生5~6年の時そんな奴がいたっけ、と思い出したが顔が浮かんでこない。 「それが何だ?」 「昨年、父が癌で亡くなりまして、遺品の中から北畑さんが一番の親友と書かれておりました、実は私が結婚が決まりましたので、父の幼馴染代表として披露宴にご出席頂けないでしょうか?とお願いに伺いました」 「お前とは一面識もない、お前の父親の顔も思い出せない、赤の他人の結婚式になンか誰が出るか、祝儀だけ欲しい新手の小遣い稼ぎか・・・、今度来たら張り倒すぞ」とドアを閉めた。 しかし、あの寂しそうな、辛そうな顔が気になって、故郷に住んでいる弟の憲吾に携帯の番号を押した。 貸す金は無いぞ、と先に言われた。 フカミゾアツオを知ってるか? フカミゾって、シンコー? ほら、深溝文具の? そうか! 一遍に記憶が蘇った。 シンゴとシンコー、呼ばれたら良く一緒に返事をしたもんだ。 そうか、シンコーか、あいつとは一緒によく遊んだな、特に近所の小川で。 釣具屋で買った竹竿で小魚が釣れるとそれだけで喜んで大はしゃぎしていた。 あの二年間、毎日一緒だったな、確かに。 中学ではクラスが別れたし、クラブも違ったので疎遠になったが。 ・・・不覚だった、わざわざ訪ねてくれた親友の息子にあんな形で追い返してしまった。 文具店の実家に掛けて調べた携帯は留守電だった。 「あの後思い出しました、変なセールスとか勧誘とかと思い込んでしまって、ホント、申し訳ない」 しかし、返事は来なかった。 シンコーを弔う意味で、近くの川で竿を出せば多少の埋め合わせになるかも知れない。

 

川幅は8m程の綺麗な水の、川だった。 川底は砂地のようだ。 やや太り気味の初老の男性がひょいと竿を上げた。 小魚が水面から飛び出して跳ねる。 素早い手つきでハリを外し、クーラーボックスに納めた。 また掛かった。 「こんちわ」と声を掛けると、男性は小さく頷いた。 「何が釣れてるンですか」 「オイカワですよ、地方によってはヤマベとか言われてるけどね、今は、脂がのって旨いよ」 クーラーボックスを見せて貰うと、20匹ほどのオイカワが釣れていた、中には20cm程の獲物が3匹もいて小魚ではない風格がある。 やってみるかね?と竿とチューブ入りの練り餌を貸してくれた。 5回目で15cm程を釣り上げると、「お見事、筋もイイ」と褒められて、咄嗟に「おれ、竿を買います」と言葉が出ていた。 軽自動車があるから釣具屋迄連れて行ってあげるとのお言葉に甘えた。 男は隣の市に住んでいる野田作一と名乗り、奥さんは4年前に亡くなって今は、一人暮らしだという。 新吾も20年以上前のバツイチで今、失業中だと打ち明けた。 「ここら辺にはね、奇跡を信じたければ釣りをすればいい、と言うことわざがある」とその謂れを聞かせてくれたが、江戸時代、逃げて来た隠れキリシタンが幕府にバレた時の奇跡が起こった話だった。 彼のアドバイス通りに一式を揃えた新吾は、「何か、お礼がしたい、何か、この店で選んで下さい」 野田さんは、「それなら、オイカワ釣りをまた誰かに教えてやってくれないか、オレも、たまたま出会った先輩に教えてもらったし」 ・・・帰宅した新吾は川釣りの入門書を買いに本屋に出かけた。 魚にとって人間の手は火傷するくらいの高温とは新発見だった。 スレ針でキャッチ&リリースを心に留めた。

 

翌日、一週間続くと天気予報通りの好天の中、遊歩道を歩いて前日と同じ場所で竿を繰り出した。 一投目から手ごたえがあった。 左手にポリ袋を被せてオイカワを掴み、「大ききくなってまた来いよ」と声をかけてリリースした。 15匹ほど釣ったアト、ラーメン屋でチャーハンと餃子を食べて、場所を移動すると、胴長を付けた初老の男性が川底を掬っていた。 棒の先には目のこまい熊手が付いていた。 何と、シジミが取れるという。 けど、他言するな、誰もが採り出すといなくなっちゃ困る、と口に人差し指を当てた。 バケツの中から少し分けてあげる、と言ってくれたが、今日は釣りに専念したいと断った。 更に移動して橋が架かっている下で釣り始めると、二人の子供、5~6才姉とその弟が覗き込んできた。 その後ろには30代らしき母親が顔を出した。 「本当に釣れる?」と女の子が問うので、「じゃ、見せてあげよう」と釣ったオイカワをポリ袋をはめた手のひらに載せて護岸を登ってゆくと、親子三人が嬌声を上げた。 母親が、食べられるのなら何匹か頂けますか?と、数分後、近くの自宅から小型の容器を持ってきた。 10匹になった容器を下げ、満面の笑みを残して親子は帰って行った。 更に移動して上流で竿を振り出していたら、「お~、いた、いた」と野田さんがクーラーボックスを下げて現れた。 「オイカワの塩焼きを賞味してもらおうと思って、時間ある? 釣った魚、ここに入れておいて・・・、あちらの広場でバーベキューの用意をするから、缶ビールもあるし」 何匹か釣れた時に声が掛かった。 ビジネススーツの愛想の良さそうな太った男、勤務中なのだろう、「オイカワが釣れるよ」 「釣り、うまいモンですね」 「いや、昨日始めたばかり」と答えている内にたちまち10匹を超えた。 吃驚している男に「やってみる?」と竿を差し出した。 男は名刺を出した。 宮野、北畑と紹介しあい、チューブ餌を付けてやった。 失敗しながらでも10回目くらいにオイカワを釣り上げた宮野さんは、「いや~、面白いですね」と満面の笑みだった。 野田さんが、釣れたかね? 15~6匹ですかね、オイカワ塩焼き、そちらの方もどうだい? 実はオレも初めて食うのさと北畑が言い、三人が広場に向かった。 野田さんの軽自動車の横にセットされた炭焼きのコンロ、野田さんが手慣れた様子で、うろこを取り、腹を割いてワタを取り出してからコンロの網に載せ塩を振る。 ビールをどうぞと、氷水を張ったバケツには缶ビールとウーロン茶が入っていた。 宮野氏が、もう少し買ってきます、と止めるのも訊かずに走り出していった。 焼き魚の匂いが鼻腔を擽る。 煙が上がり、脂が落ちてじゅーッと音を立てている。 三人で乾杯、野田さんが醤油を少し振りかけると食欲を刺激する匂いが更に漂う。 脂ののった身は柔らかく、「あ~ッ、旨い!小骨もカリカリだし、こんな旨いモノがその辺を泳いでいたなんて」と、宮野氏が絶叫まがいに声を上げる。 釣り談議になって、明日にでも宮野氏が釣り具を買う事になった。 

 

「おッ、イイ匂いだな」と50才過ぎの作業服姿が寄って来た。 「そこで釣ったオイカワです、味見をどうぞ」と野田さんが紙皿にとって手渡す。 4人のビールとウーロン茶が進んで、男は音羽洋平、近くで小さな自動車解体工場を経営していた。 用事がある、お先にと言いながら音羽さんは千円札数枚を出して、「ご馳走になった」 受け取りを断った野田さんも新吾も、「それなら釣り道具を揃えて下さい」と言うと、にっと顔を綻ばせて「判った、そうしよう」 今度はさっきの親子連れの母親がタッパーウエアを持って来た、「南蛮漬けにしました、旦那は単身赴任なので全部食べて下さい」 三人とも、旨い!と絶賛だった。 「俺を見かけたらいくらでもあげますけど、それより今度は釣ってみたら? 俺も昨日始めたばかりだし」 宮野氏が「僕はさっき始めました」 驚く彼女は帰って行ったが、彼女が一週間以内にやる、と宮野氏が言い、野田と新吾は食べる専門だろう、と意見が分かれ、負けた方がバーベキューの飲み物を負担する事で賭けが成立した。

 

賭けは宮野氏が勝った。 親子三人で釣りをしてみたい、と母親が現れた。 水辺なので子供に充分注意して貰う事を条件に、道具揃えに同行し、釣りの仕方も教えた。 高島理江、亜希歩、翔太の三人の内、一番熱心だったのは翔太だったが、釣れたのが最後だったのも翔太だった。 遂に釣り上げた時、みんなで「やった、やった」と大騒ぎだった。 自分で釣り道具を買い揃えて来た音羽さんは野田さんが面倒を見ていた。 ・・・月曜日、高校をさぼっていた若い男の子に新吾は声を掛けた。 「面白いぞ、やってみないか」 最初の一匹が釣れたら、やっと、重い口を開き始めた。 中学生の時に引き籠りになり、今の高校も楽しくない、結構、さぼっていると打ち明けられた。 火曜日、けばけばしい化粧の女の子二人組、「クレーンゲームよりよっぽど面白いぞ」と竿を持たせると、何度目かのばらしのアトに釣り上げて二人して大騒ぎだった。 水曜日以降も新吾は声を掛け捲り、言葉を交わしたり道具を揃えたりする人が増えて行った。 宮野さんの「またやりたい」との声を受け、バーベキュー大会が開かれた。 16人も集まった。 塩焼き、天ぷら、フライ、高島さんが作って来たマリネも出され、一同は様々なオイカワ料理を堪能した。 話が沸騰していたが、誰もが一人暮らしだったり、友人がいなかったり、家族を失った人たちだったと新吾は気付いた。 音羽さんが、「仕事を探しているンなら、俺ン所で働かないか? 車の解体で人手が足りない、嫌かい、そんな仕事は?」 「勤まりますかね」 「大丈夫、ぜひ頼むよ、釣りの為なら多めの休憩時間も構わない」 顔を綻ばせた音羽さんは「本当に考えてくれ」と新吾の肩をポンと叩いた。 宮野氏の提案でこの会の名前が「清流会」となり、新吾が代表、野田さんが顧問となった。 その時、大音響の音楽が流れて来た。 窓を開けたマークⅡから見える顔は、ついこの前、新吾とトラブルを起こした野郎だった。 「よう、どっかで会ったよな」 男は憎々し気に、「何だ、てめえ」と怒気露わだったが、「オイカワ釣り、お前もやってみないか」 「はァ、てめえ、舐めてんのか、こら、アタマいかれてんじゃねェか、おっさん」と捨て台詞を吐いて去っていった。 普段の自分なら、あんな生意気な野郎は叩きのめしていた。 自分の身に起こった小さな奇跡だった。 ・・・5時間後、その若造が現れた。 「さっきは悪かったよ、それだけ言っとかないと、アンタだけ大人で、自分はガキみてえな気がしてさ」 竿を出して、「ちょっと付き合えよ、それとも釣れなくて恥を掻くのがいやなのか」 そこまで言われちゃ男が廃る、とばかりに竿を振り出した。 二度目で、20cm程が上がった。 「おう、ビンビンくる、ひゃー、すげー」 「よっしゃ、おりゃー」と掛け声を上げて5匹目をリリースした時に独り言のように言った。 「アンタとトラブった時、丁度、配送の仕事をクビになっていたのさ」 「そうか、オレも失業中だ」 若造は太田恵司と名乗り、釣り道具を薦めても、「さあ、そこまではな」と気のない返事だったが、新吾は今度会った時、こいつは自分の道具を持っているに違いない、と確信した。

 

新吾は次の週から解体工場で働き始めた。 奥さんと二人だけの小所帯で、音羽さんの指示に従ってオイルまみれになっての力仕事だった。 酷い筋肉痛も数日で慣れ、休憩時間を長めに貰って釣りにも出かけられた。 清流会のメンバーは30人を超えた。 日曜日のオイカワバーベキューのアトは、全員で清掃活動をする事になり、ず~ッと長続きする気配である。 ・・・気配を感じて振り返ると、前の会社の総務課長・相葉だった。 クビを宣告した本人だったが、北畑に責任をとらせた、その理由の真相を知って謝罪に来た、と言う。 実は自分もクビになって、北畑君に謝らないと先に進めないと思ったらしい。 「相葉さん、ちょっと釣ってみませんか」と竿を手渡すと、二度目に小さなオイカワが釣れて嬉しそうだった。 相葉は三匹釣って竿を返し、「何か、元気が出て来たよ、君のお陰だ」と、自嘲気味に笑った。 遊歩道から長身の若者、シンコーの息子、深溝リキオがぺこりと頭を下げた。 この前はゴメン、失礼な事しちゃって、いえ、留守電ありがとうございました、出席させてもらうよ披露宴、釣りを始めたのもお父さんと一緒に小魚を捕った思い出さ、折角だからちょっと釣ってみない? するとイキナリ、20cm程の婚姻色のオスが釣れたのである。 新吾も初めての婚姻色だった。 「うわ、綺麗な魚ですね」 リリースすると、妙に名残惜しそうにじっとしていたがやがて泳ぎ去った。 初めて釣りをした今度結婚する若者に婚姻色のオスが釣れた、これも奇跡の一つかな?と新吾は思った。 (ここまで全260ページの内、54ページまで、以降、作者の持ち味の、人間臭いストーリーが続く、最終章でシンコー絡みの感動的な話があり、見事な連作短編集であった)

 

(ここまで、5,600字越え、自分日記を書き込まないで、本だけで5,600字越え、初めてかも知れない)

 

                                     令和2年7月8日