令和2年(2020年)4月6日 第315回
初めて図書館で借本を申し込んだ。 免許書を見せて個人登録をし、上限10冊を記入した。 最近は単行本に手が出なくて、文庫本ばっかりだったので、買いたかった単行本7冊、文庫本3冊である。 新型コロナで、まだ館内での閲覧は出来ないが、申し込みはOK。 これからはP・Cでの申し込みも出来るので、そっちも試してみよう。 中古本の寄付も受け付けてくれるというので今度からは売らずに寄付をしようかな、と思っている。 館員の表情から結構な期待感を感じられたから、尚更である。 ・・・二日後、連絡が来て単行本1冊、文庫本2冊を借用してきた。 二週間後に返済だから、家内とムチを入れて読了せねばならない。 寄贈は単行本10冊。 楡周平5冊、相場英雄5冊である。 「綺麗な本ばっかり・・・」と感謝された。 二週間後、また借りてまた寄贈する。
小野寺史宜「ひと」(単行本・2018年、U内科から借用)
東京・砂町銀座の「おかずの田野倉」からコロッケや揚げ物のいい匂いが漂ってくる。 柏木聖輔はポケットの55円で50円のコロッケを買おうと軒先を覗いたところ、アトから来た威勢のいいオバちゃんに最後の一つを買われてしまった。 15分後に揚がるというが、実は腹ペコなのだ。 「どう、メンチ?」と言われて正直に55円しかない、と打ち明けると、60代半ばくらいの店主が、「さっき、オバちゃんに譲ってくれたから、50円にまけてやるよ」と120円のメンチカツを手渡された。 旨い! 揚げたてのカリッ、ジュワッ、アツい、出来立ての食べ物を久し振りに食べた。 柱に貼り紙がある。 「アルバイト募集、時給は950円、時間は応相談」 思わず、「ここで働かせて下さい、20才で仕事探しています、アパートから徒歩10分です」とお願いした。 「学校辞めたのか? 借金あるとか、捕まったとかないンだな? じゃ明日3時、履歴書持って来て、ウチも人手が欲しいから、これ、食いな・・・」と、ハムカツを奢ってくれた。
三年前、高二の時、父・柏木義人は飛び出してきた猫を避けようとして電柱に衝突して亡くなった。 居酒屋で働いていた料理人だった。 死亡保険金は、母の故郷・鳥取市で自営の居酒屋「鶏取」を潰した時の借金を差し引き、聖輔は残った金で東京の法政大学へ進学できた。 住まいは南砂、キャンパスは市ヶ谷、両方とも東京メトロの東西線上だった。 奨学金は申請しないで、一年生5月からアルバイト、コーヒーチエーン店で接客、そして、高校からやっていたベースで軽音サークルに入り、篠宮・川岸とバンドを組んだ。 カフェで、別の大学の一才上の小田原市出身の原口瑞香と出会い、付き合った。 柏木のアパートに三度来てたが、「好きな人が出来た、別れたい」と今年7月にイキナリ言われた。 デート代は殆ど聖輔が出していたので、「いいように遊ばれたな」と篠宮に言われた。 ・・・8月、母・竹代が急逝した。 鳥取県営住宅に一人住まいだった母は、鳥取大学の学食で働いていたが、昨日も今日も無断欠勤だったので、職場のナカタニさんとビトウさんが訪れ、管理の人に頼んでカギを開けたが、チエーンが掛かっていたので警察を呼んだ。 フトンの中で絶命していたのが発見された。 心臓発作の類らしい。 母のスマホにたった一人あった、いとこの船津基志さん・44才に母の死を伝えた。 葬儀は基志さんが取り仕切ってくれた。 お墓は父と同じ永代供養墓。 県営住宅の明け渡し、遺品整理、業者の手配、遺産は葬儀とそれらの費用を差し引いた200万円ほど、ところが、基志さんが、「実は、竹代さんに50万円貸している、借用書は貰ってないけど」と言い出した。 母が借金するなんて信じられなかったが、今回は随分お世話になった遠戚である。 そこで50万円減った。 20才にしてまったくの一人になった。 東京に戻ってきて大学は中退した。 借金が残る奨学金を申請していなくて本当に良かった。 ベースを弾くのもきっぱり辞めた。 5年前に5万円強で買ったベースが3,000円と言われて売らなかった。 食費は一日500円、一か月15,000円と決めた。 ATMが目に付くが、出来れば金は下ろしたくない。 そんな状況での今回の「働かせて下さい」だった。
「おかずの田野倉」で一か月が過ぎた。 将来、調理師になる為、二年経ったら実務証明書を下さい、と申し入れると、じゃ、早い内に調理させなきゃナ、と快諾してくれた。 高卒、大学中退、無資格者としては、父親がやっていた料理人、そこに将来の目標を定めたのである。 店主は本当にその日から雇ってくれた。 田野倉督次・67才、奥さんの詩子・65才、近くの団地の賃貸住宅に住み、惣菜店は30年以上になり、子供はいない。 店主の友人の稲見民樹さんの息子が、映機・24才、フリーターだったが、その友人に頼まれて雇っている。 一之江から30分のバス通である。 芦沢一美・37才、都営住宅から徒歩通勤、シングルマザーで14才の準弥君と二人住まい。 この4人と聖輔が惣菜店のメンバーである。 店主は、「そもそもコロッケが旨いのさ、そのコロッケを作る、ただそれだけさ」と言い切り、聖輔は秘かに感動した。 この人は信用出来る! 残った惣菜を毎日のように持ち帰らせてくれるので、一美さんも聖輔も大助かりである。 旨いから厭きないし・・・。
大学時代の篠宮が泊まりに来てくれた。 実家住まいでアルバイトもしているから気前はいい。 缶ビールとじゃがりこの差し入れである。 お前の休みは何時? 水曜定休、も一つは月曜、と答えると、その日以外は昼間はいないだろうから、俺に寝かせてくれないか、との申し入れだった。 東陽町のダイニングバーで17時からアルバイトをしており、明け方近く、西船橋の実家に戻るよりもここの方が遙かに便宜がイイ、との事だった。 ラブホの休憩みたいに金も払うと言うが、それは断り、差し入れをも少し豪華に、と合意して合鍵を持たせた。
午後5時過ぎからのピークが終ると、閉店は午後8時、男女の若者がこっちを見ていて、「やっぱりだ、柏木君だよね」 エッ! まじまじと見る。 「もしかして八重樫青葉さん? 鳥取の高校の時の?」 「この商店街がテレビで紹介されていて、柏木君を見かけたの、こちら、元カレのタカセリョウ君」 大学を訊かれたので、「法政は辞めた、いろいろあって・・・」と返すと、タカセ君が「俺、慶應、彼女は首都大」 彼女とは、連絡先も教えあったが、直ぐ、翌日電話が来るとは思っていなかった。 待ち合わせた東京駅八重洲北口で、「実は看護師の母が再婚して今は井崎青葉、最初は園、中学生の時に母が離婚して八重樫、高校生最後の時に再婚して井崎、義父は鳥取で車会社の社員、母と共稼ぎ、私も看護師を目指している」と、結構な姓の変化だった。 高二の時、聖輔の父が亡くなった事は知っていたが、最近の母の急逝には吃驚していた。
12月、聖輔は風邪を引いた。 午後二時過ぎ、「インフルエンザで移されたらみんな敵わん、ましてやお客様にも・・・、だから帰れ」と店主に言われて、アパートに健康保険証を取りに戻ると、篠宮が女を連れ込んでいた。 布団が敷かれていて、コトが終ったアトらしく、下着姿のまま、「聖輔、これ、俺の彼女、成松可乃」と泡食っていた。 女を連れ込んだのは今日で3度目って酷くネ? それもオレの布団で・・・。 交差点で彼らと別れて病院で受診、良かった、インフルエンザじゃなかった。
映機さんがやらかした。 二時間の大遅刻で仕込みに穴を空けた。 「お前、自分の店なら潰してしまうぞ、俺の店だから潰れてもいいのかッ!」と、督次さんは普段にない怒りだった。 「次やったらおれも考える、民樹とは友達だがそれとこれとは話が別だ」 ・・・アパートに鳥取の遠戚・船津さんが訪ねてきた。 「30万円まわしてほしい、葬儀や遺品整理、全部俺がやったよネ、アレで仕事も何日も休んだし、50で、と言ってもいい位でしょ」 「母はホントに50万借りていたンですか?」 「参ったね、身内に疑われた上にたかり屋扱いか」 「一寸、考えさせて下さい」 「今日、ここに泊めてくんない? その位いいでしょ」と面の皮が厚い。 「夜、バイト終わりに友達が来る」と嘘を吐いて撃退したが・・・。 チッと露骨な舌打ちを残してようやく出て行った。
店長の指示で二階に一美さんと休憩に上がった。 準弥君が文化祭用にベースを弾く事になったらしい。 安くても20,000円はすると聞いた一美さんは、買って上げれるのは1~2ヶ月アトね、と寂しそうに呟いたので、「僕のベースはもう弾かないので準弥君に貰って下さい」と、言い切り、一美さんを感激させた。 ・・・映機さんの休みの午後3時、カノジョだと名乗った野村杏奈さんが、聖輔を見て、「キミが手下か、初めて出来たエイキの部下と聞かされているわ、店長さん呼んでもらえる?」 店長が二階から下りてくると、「初めまして、映機がいつもお世話になってます」 「先月はとんでもない遅刻をしまして済みませんでした、あれ、実は私のせいなンです、前の日、私の誕生日で羽目を外し過ぎました、言い訳になりませんが赦して下さい、私の勤め先なら即刻クビになります、これ、映機の他の皆さんで召し上がって下さい、洋菓子です」 年を訊かれた杏奈さんは、「映機と一つ下の23才です」と屈託ない。 折角来たんだから持って帰りなさい、とコロッケ、カニクリーム、ハムカツ、チキンカツ、メンチカツの5品をビニール袋に入れて手渡した。 お金を払います、と言うのを無理やり遮って・・・。 「ウチのは温め直しても旨いンだ、と映機はいつも言ってます」と嬉しそうに抱えた後姿は、「映機にゃ、勿体ないイイ娘だ」と呟き、「聖輔、来週からコロッケを揚げてみろ、そうすりゃオレも助かる」
初めてコロッケを揚げた日、遠戚の基志さんがやって来た。 「30万、考えてくれた?」 「10万だけ渡します、それで終わりにして下さい」 映機さんに早休みを断って、郵便局で10万下ろし、ピン札を渡した。 「母は貯金があったのに、本当に50万借りたンですか?」と、尚も訊き質した。 平気で嘘を吐く人がいるンだ、とつくづく思った。
井崎青葉から、「あらかわ遊園地に行かない?」とLINEが入った。 「入場料200円!」と得意そうな文字が並んでいる。 午後5時の閉園まで、たっぷりと、ゆっくりと過ごした。 町屋まで徒歩30分、ぶらぶら歩きながらチエーン店の焼き鳥屋でビールを頼んだ。 つい一週間前の3月14日に20才になった青葉の誕生日祝いに、聖輔が奢ると宣言した。 それに託けて、「自分も、肉、肉、肉、肉を堪能する、鶏肉だけどね」 東京都の調理師試験は年一回。 だから、一回で受かりたい、と調理師を目指す決意も打ち明けた。 「実は高瀬君との付き合いを断わったの、優先席も座る人がいないから座る、赤信号の歩道も、車が来ないから渡っちゃう、という無神経なところが嫌なの」
昔、父が働いていたという日本橋3丁目の「料亭 やましろ」を探した。 暖簾が下がっていた「多吉」で伺うと、そこがピタリだった。 50代の料理人が答えてくれて、父の二年先輩・丸さんだった。 柏木義人は三年半前に47才で事故で亡くなった、母も最近亡くなった、と告げると、「うわァ、それは大変だったね」と椅子を勧めてくれて話を聞いてくれた。 「調理師を目指しています、それで、父がいた所を見ようと、ここを探して来ました」 「父がどうしてやましろを辞めたのかご存じですか」 「それなら、やましろ時子さんが銀座でやっている鶏蘭で聞いてみな」と紹介もしてくれた。 次の休みの時に鶏蘭を訪ねると、電話でアポイントしていたので、山城時子さんに会えた。 若くして亡くなった山城力蔵さんが始めたお店よりも、鶏料理をメインとした料理をやりたくて、銀座に引っ越したらしい。 「力蔵さんが亡くなった時、料理人は3人、板垣、丸、柏木、腕は板垣が一番、しかし、職人気質でお客さんを見下げる態度があり、柏木君は意見をしたことがあったが、それを板垣は殴りつけた事があった。 柏木君は殴り返さずに、アトで、ご迷惑を掛けました、私が辞めます、と言ってくれて正直、ホッとした。 けど、一年後、板垣が引き抜かれた、聖輔君のお父さんに本当に不人情な事をした、とず~っと傷付いていました」と、時子さんは萎れた儘だった。 いやいや、こんなに赤裸々に打ち明けてくれて、こっちこそ感謝です。 「こまったらウチに来なさい、丸君だって味方だからね」と、力強い援軍を得た事も大きな励ましになった。
(ここまで、全296ページの内、178ページまで、心地良く物語が続く。 帯のPRに、人生にエールを贈る傑作、心に沁みる共感と絶賛の声、止まず!とある。 同感である)
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令和2年4月6日