令和2年(2020年)2月10日 第307回
(前回は、間違って2月10日としたが、今回は間違っていない)
毒蝮三太夫の公開ラジオ番組が、彼の激しい毒舌(クソジジイ・クソババアとか)にも拘わらず、昨年満50周年を超えたそうな。 凄い。 ジジ・ババへの会話。 「年は幾つになった? ~毎年変わるからなァ、判んねー」 「歩く度に一つ忘れる、また一歩、また一歩、これをアルク(あるつ)ハイマーと言う」 ・・・ウド鈴木が人気の出る前の床屋さん、ず~っと無料で奉仕していたそうな。 「だってさ、頭はどんな形にでも出来るけど、顔は治せないモノ・・・」
夏川草介「勿忘草(わすれなぐさ)の咲く町で」
プロローグ 窓辺のサンダーソニア
月岡美琴(みこと)は、長野県・上高地の入り口にある梓川病院の三年目の看護師である。 朝7時、近くの実家から今朝も自転車で通勤中である。 梓川の澄んだ水や遠景の安曇野を眺望しながらの気持ち良いひと時である。 前方の我が病院に救急車が到着したのが見えた。 そういう患者は、美琴が最初に配属された救急部の担当であり、自分の時間に余裕があるので、島崎師長に「何か、お手伝いできますか?」と問い掛けた。 「寝たきりの88才、いつもの患者さんよ、当直は三島先生だし・・・」と、慌てず騒がずの悠々たる状態だった。 「絶対頼りになる副院長と、腕利きの師長の最強の組み合わせですね、反則ですよ」と、羨まし気に呟く。 揺れたカーテンの奥に三島先生が見え、その背後に白衣姿の見慣れぬ青年が立っていた。 「この四月から一年間、研修医の桂先生・・・」と島崎師長が囁く。 「独身だそうよ、イイ男じゃない」と、別に聞いてもいないのに、面白そうに言う。 師長のPHSが鳴ってまた、新たな救急患者らしい。 そそくさと島崎師長が出て行くと、当直明けで顔色の悪い研修医が、花瓶を片手に、「あの、水を取り替えようと思って・・・」と、男のくせに黄色い花を思いやる奇妙な先生であった。 「鈴蘭ですか、いい匂いですね」 「鈴蘭は白いンです、僕は花が好きで、黄色いこれはサンダーソニアと言います」と、にべもない。 美琴の花の無知さに容赦ない駄目出しだった。
第一話 秋海棠の季節
(秋海棠~中国の故事、思いが遂げられなかった美人が苦しみ抜いた挙句に流した涙が咲かせた花、断腸花とも言う)
7月、内科病棟の美琴は今日は夜勤である。 夜11時、夜勤看護師は一息つく時間であるが、外科で3ヶ月間終えた研修医の桂正太郎がじっとモニターを見つめたまま、動かない。 医師がいるだけでステーションに緊迫感が漂う。 要するに休憩したい看護師達にとって邪魔な存在であった。 同期の沢野京子を始め夜勤の面々が、リーダー格の美琴に対して圧力を掛けてくる。 無言の「追い出せ」という声が聞こえる。 思い切って声を掛けた。 「先生、何かありましたか? 一時間以上もそうして座っていますけど・・・」 「ああ、もう11時を過ぎましたか、208号室の長坂さんへのインフォームドコンセントを考えていました、指導医の三島先生に指示されたので・・・、膵臓癌の発見時、既に手術の難しい病期まで進行しており、頭の中で、シュミレーションしている内に、纏まりが付かなくなって、かえって、長坂さんを混乱させてしまったのです」 「それは頭の中での話ですよね」 「勿論です、現実だったら大変です」 「長坂さんはしっかりした方です、一緒に頑張りましょう、という気持ちを伝えた方が大事なんじゃないでしょうか」 「そうですね、ありがとうございます」と真摯な目で頷かれ、どぎまぎした。 桂研修医は出がけに、受付の花瓶に目を向け、「これ、月岡さんのアレンジですね、沢野さんから聞きました、青と白だけの花は葬儀用の供花みたいです、やめた方がイイですよ」と、にこやかに一礼して去っていった。 指摘されて、みるみる顔を赤くした美琴に、京子が面白そうに声掛けてきた。 「手ごわいね、今度の研修医」 患者さんから貰った花を花瓶に活けたのを、最初に見た京子は、「なかなか、綺麗ね」と言ったくせに・・・。
昼休みの職員食堂、島崎師長から声を掛けられた。 「ご活躍みたいね、意外に手が早いンじゃない? インフォームドコンセントに悩んでいた桂先生を励ましてあげたそうね、やるわね、月岡、・・・いいンじゃない、美味しそうな肉が鉄板に載っていれば、少しくらいの生焼けだって食べちゃうでしょ」 「花に詳しい変な先生って言っても、ウチの先生は変人ばかりでしょ、遠藤院長は呼吸器内科専門なのにヘビースモーカーだし、強面の三島先生の部屋からは、謡い、の変な唸り声が聞こえてくるし、外科の丸谷先生は呑み会の度に看護師を口説いているし・・・、アンタね、気を付けなさいよ、先生達に遠慮が無さ過ぎよ、この間も容態が急変した患者さんの時に、帰宅した丸谷先生と喧嘩になったでしょ、泥酔していたからって、自分の患者のいる時、お酒に酔っちゃいけない、って誰が決めたの? その程度で怒るのは未熟の証、けど、成長の証でもあるけどね」 「いいこと月岡、バーベキューの鉄則は兎に角早く箸を突き出す事、皿に取ってから生焼けなら、鉄板に戻せばいいでしょ」 人の事だと思って勝手な、それでも、愛情いっぱいの師長だった。
主任看護師の大滝女史は身長170cmを超える長身で、その貫禄溢れた容姿と手際の良さで誰からも信頼が厚い。 僅か、5年先輩なだけでこんなに違うものか、と美琴は感心しきりである。 今日は街の花火大会、ステーション向かいのデイルームに多くの患者が楽しんでいた。 ステーション奥の端末の前で、突っ伏して眠り込んでいる桂研修医がいる。 ここのところ、進行がんの患者が多く、不眠不休でその対応や諸々の処置が続き、今日は限界なのだろう。 大滝主任が、タオルケットをそっと掛けてあげたのを見ていた。 美琴は松本市生まれの松本育ちである。 「桂先生は東京出身、信濃大学を出てそのまま松本に残ったンだって、実家はお花屋さん」 そこに同期の京子が口を出す。 「だから将来実家を継がないし、これは絶好の獲物よ、ミコ」と、煽ることを忘れない。 「月岡って、男に興味がないの?」と、大滝主任は不思議そうに「そんな美人なのに・・・」と呆れ顔である。 京子がさらに突っ込む、「男を寄せ付けなかったミコがとうとう・・・、と皆んな、固唾を呑んで見守っているから、こんな面白い事ないわ」と、囃し立てる。 桂研修医との、恥ずかしい無知な花のやり取り、膵臓癌患者のインフォームドコンセントへの助言、たったそれだけで、噂話がすっ飛びカモメ、なのであった。 大滝からは、自戒を込めて美琴が教えられた事がある。 「出来る看護師とは、上手く医者を動かす看護師の事、処置する腕がイイとか、患者と寄り添ってるとか、それだけじゃダメ、看護師の立ち回り一つで医者の動きは全然変わる、自覚しなさい」 京子がため息を吐いて、「あんな変な先生たちの機嫌を取って仕事を回していくなんて私には無理」と、早々に兜を脱ぐ。 「まともな神経の人には耐えられない環境よ、先生たちの生活を見ていたら解るわ」と、ロクに帰宅出来ない先生方を気遣うのであった。
お盆が明けた8月半ば、膵臓癌の長坂さんの抗がん剤治療が始まった。 桂研修医から点滴の期間や副作用の説明を聞いていた長坂さんは、「先生と話していると、治療に対する不安は微塵も感じません」 「先生、私は少しでも生きたい、妻と小学生の息子の為にも・・・ 私に力を貸して下さい」と、力強く握手を交わす二人だった。 廊下を歩きながら桂は美琴に淡々と呟く。 「力を貸してくれなど、未熟者には重すぎる言葉です」 「重すぎる言葉を先生が一人で背負う必要はありません、三島先生と言う桂川病院最強の後ろ盾がいます、あだ名の小さな巨人の前では病気だって逃げ出します、それに私たちだって付いています」 「そうですね、月岡さんてもう少し冷たい人だと思っていました、ありがとうございます」と、最初の震え声ではない、力強く、きっぱり言い切ったのであった。 「病室に飾られていた鉢植えの秋海棠(しゅうかいどう)、満開の花を見せて上げられたら良いですね」と呟いた。 廊下の向こうや病室に看護師たちの姿が見える。 明日はまた良からぬ噂が立つのだろうか、しかし、心の中は意外なほど爽やかだった。
9月に入り、朝食のトーストを頬張っていた美琴は、「お母さん、あれ、何て花?」と青紫の花を指さした。 「あんた、男出来たでしょ、ミコが誰とお付き合いしても文句は言わないつもりだけども、その人だけは辞めなさい、花の名前が必要になるような人に、桔梗の名前も知らない娘なら、母親の立場が無いわ、気持ちだけ優しければそっちの方が断然良いわ、お父さんみたいなネ」 美琴は反論を諦めて、隣の和室に鞄を取りに行く、床の間に大きな和琴が立てかけられてある。 「この琴の音のように美しい女の子に」という両親の願いは高望みだ、と良く母に向かって口にしたものだ。 ・・・その日の夕刻、当直明けだった桂先生は帰宅せずに、ステーションの皆に訊き回っていた。 「ナマダイコンのコヌカヅケ?」 誤嚥性肺炎の88才のおばあちゃんが、嚥下機能が落ちて食事量が激減し、それなら食べれる、と聞きかじったらしい。 点滴棒を引きずった長坂さんから助け船が出た。 「それは沢庵の事ですよ」 「やっと知れてこれで充分に眠れそうです」と桂が礼を言っている。 「長坂さんの経過は良さそうですね」 その問いかけに桂の返答はなく、視線は宙を彷徨っていた。 ・・・その後、転げ落ちるような長坂さんの経過だった。 数日後に急激な黄疸が出現し、血液検査の数値も一挙に悪化、日曜日夕刻、美琴が当直の時、桂先生は骨と皮だけになった長坂さんの手を握りながら、奥さんに声掛けした。 「誰か、会っておかなければならない人は?」 「このまま見守ります」 少年が不安そうな声で、「お父さん、どしたの?」 その声で妻は、押さえ続けていた感情の堰が切れたように泣き崩れた。 そして、長坂さんは逝った。 午後8時30分。 ・・・10時、美琴はパシリと自分の頬を叩いた。 泣きはらした赤い目がようやく元に戻っている。 長坂さんの遺族を病院の裏手から送りだして来たところである。 未だ泣き腫らしている後輩もいる。 自分がしっかりしなくちゃ、と気合を入れたのであった。 桂先生はソファーですーすーと寝息を立てている。 無精髭に涎が付いている。 白衣もよれよれで酷い姿であるが、美琴はずり落ちそうな毛布をその肩に優しく掛け直した。 ・・・長坂さんの死亡宣告を告げた直後の桂先生は、能面のような無表情で病室から出て行った。 そして、ふらりと舞い戻り、二週間前に訊き回っていた「生大根の小糠漬け」を買って来た。 明日の朝、あの88才のおばあちゃんに食べてもらうのに、みじん切りにするという。 「私がやります」 この沢庵の正体を教えてくれた長坂さんは逝ってしまった。 「神様は酷いモンです、あんな気持ちの穏やかな人に、もう少し家族と居る時間をプレゼントしてくれてもいいだろうに・・・」 この青年は心で泣いているのだろう。 美琴は溢れる涙を堪えた。 「しかし、秋海棠は満開でしたね」 細やかな二人の満足感があった。
日曜日の夜11時半、ステーションが騒がしい。 紳士然とした男性が、担ぎ込まれた元市議会議員の今後のどのような治療予定なのか知りたい、と横柄な態度で新人看護師に立腹しているのだった。 三島先生は帰宅、桂先生はグロッキーでソファーに倒れ込んでいる。 「先生達は激務を終えてお休み中です、詳しい話は明日の朝、先生からお聞き下さい」 「ここは病院でしょう、ちょっと訊き出してくれる位、当たり前でしょう」 美琴は冷静であっても怒りを禁じえない事を始めて知った。 「今日はお引き取り下さい、ここは病院です、具合の悪い人が来る場所です、その時は先生は直ぐに飛び出してきてくれます、そうでない人が自動販売機にコインを入れて医者が転がり出てくる、とでも思っているんですか」 「病院はどんな大変な病気を抱えているかが、優先順位です、立派なネクタイを下げているかではありません」 紳士然はしばらく美琴を睨みつけていたが、捨て台詞を吐いて出て行った。
三島副院長室に呼ばれた美琴は、「来年、あなたを病棟主任に引き上げます、大滝主任は退職して実家に帰られます、後任を大滝主任が推薦してくれました」と告げられ、驚きだった。 「まだ三年目の私には無理があります、優秀な先輩もいらっしゃいますし」 「私もそう思ったが、こんな投書が来て気持ちが変わりました」 夜中にお帰り願ったあの紳士然とした男からのクレーム状だった。 要約すると「無礼な看護師がいる、辞めさせろ」 自動販売機の事も詳しく書いてあった。 「病状の悪い人が優先順位、と言うくだりは立派です、本質を誤ったサービス精神であれば、患者の為に沢庵を切る医者はいなくなる」と言いながら、そのクレーム状を「ビリビリと引き裂いだ。 「おばあさんはちゃんと食べてくれてますか?」 美琴が大きく頷くと、「みんな、いい仕事をしてますね」と、ほのかな微笑を浮かべた。 初めて見た小さな巨人の笑顔だった。
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第二話 ダリア・ダイアリー
第三話 山茶花の咲く道
第四話 カタクリ賛歌
エピローグ 勿忘草の咲く町で と続く。 感涙の話が多い。 お薦めである。
(ここまで、5,500字越え)
令和2年2月10日