長男が小学生の時、
長男のことをからかったり揶揄する言葉を使う子ども達の存在を知ることが何度かあった。
本当は日常的だったのかもしれないけど。
でも先生に相談すると「子どもだからそういうもの」と片づけようとする先生が複数いた。
みんなじゃないけど。
そういう言葉が出てしまうということは普段からそういう「思想」なんだよね。
もしくははけ口として他人を貶めている。
こういうのをそのままにしておくのが教育なんでしょうか?
他の子どもだって成長過程なんだから、適切でない言葉遣いをしてしまうのも仕方がない。
そんな風に自分を納得させていたけど、やっぱりモヤモヤしていた。
その事に目をつぶってやり過ごせるなら、楽しい日常を壊してまでこだわらなくていいという
妥協、折衷案だったのかもしれない。
そんなからかいや揶揄の言葉を子どもの時に
「人を蔑む可能性のある言葉を『そんなつもりじゃなくても』使っちゃいけない」
ということを丁寧に説明してくれる大人に出会えない人が、
野次や蔑視、差別を生み出す温床になっているのかも。
何が悪いか、何が問題だったかもわからないできょとんとしている、
そんな大人にしてはいけない。
そんな大人に将来この子たちが囲まれる社会にしちゃいけない。
決して他人事なんかじゃない。
お金を使わない(節約する)ことを教えるよりも、
お金を(しかるべき場面で判断して)使うことを教える方が難しいだなんて。
小さい頃から私個人の価値観の金銭感覚を教えてしまおうとしたことが
そもそも間違っていたのだろうか。
「節約は美徳である。」
外出先の自動販売機でペットボトルを買うよりも自宅から水筒を持っていけばいい。
たくさんの絵本に触れたいからこそ図書館に行って借りてくればいい。
お下がりでも着られる服があったら大事に使おう。
食べたいものもあるかもしれないけど、リーズナブルかな?
そんな風に生活している私と一緒にいる長男はお金に執着がない。
お金がなくても幸せを感じられるなんてすばらしい。
とずっと思っていたけれど、なんだか最近これでいいのかと思うようになってきた。
長男にお金を渡しても使わない。
必要なものには私がお金を渡してしまうし、そもそも計画的に使えるとも思えない。
本もある本を読んだり、立ち読みですませてしまうし
買い食いの習慣も、カラオケやゲームセンターなどのお金を使ってお友達と遊ぶ習慣もない。
物欲がないわけではないが、積極的に何か特別なものを欲していることも少ない。
そしてある日少しずつ貯めてあるお小遣いの小銭をまとめてもってきて
両替をして(大きくして)欲しいと言ってきた。
ああ、長男にとってのお金とは手に入ったら大事にとっておくものなんだ。
もちろん彼はお金で物が買えることを知っているはずである。
買い物を頼むとスーパーでお金を払って頼まれたものを買ってくる。
その過程は踏めるのだけど、自分で買いたいものを買うことはないのだ。
知識としてのお金、計算ができる数字の具体物としてのお金。
そして日常的に(自分とは関係のない中で)売買という取引に使う道具としてのお金。
彼にとってはそんな程度の認識だったんだ。
(そして小学校の支援級で教える「お金の学習」とはこんなものなんだろう)
お金を大事にするようにと言葉でも言外にも伝えてきたつもりだったけど
それは決定的な「お金は自分なりの使い方をして初めて価値が生まれる」という
当たり前のことが伝わっていなかったんだ。
だってお金を使わないことのほうがほめられるもんね。
お金を使わないからっていぶかしがる人なんかいないもんね。
お金に執着がないことって、一般的にいいことだもんね。
だからこそ私が生活の中で「自分にとって価値あることのもののために」
お金を使うことを、優先順位をつけたりと複雑なことを教える前に
しっかりと教えてあげなければいけなかったんだ!と気づいたのがつい先日。
お金をもっているだけでもなんにも面白くない。
自分がどうしても食べたいものを「高いけど、他を我慢して食べる」ことや
自分が行きたかったレジャーに使ったりして、楽しい思い出を作る対価にお金を払う。
生きているお金の使い方を、まだ未成年のうちに少なくとも感じてほしい。
将来お金を大事にできて、価値を見いだせて
お金に振り回されずにお金を使える人間になるために。
お金のことでトラブルに巻き込まれたり、簡単に巻き上げられたりしないように。
お金を使うことで自分の物質的な豊かさだけではなくて、
周りの人と楽しく過ごしていくためにも使えるということもわかるように。
お金を(しかるべき場面で判断して)使うことを教える方が難しいだなんて。
小さい頃から私個人の価値観の金銭感覚を教えてしまおうとしたことが
そもそも間違っていたのだろうか。
「節約は美徳である。」
外出先の自動販売機でペットボトルを買うよりも自宅から水筒を持っていけばいい。
たくさんの絵本に触れたいからこそ図書館に行って借りてくればいい。
お下がりでも着られる服があったら大事に使おう。
食べたいものもあるかもしれないけど、リーズナブルかな?
そんな風に生活している私と一緒にいる長男はお金に執着がない。
お金がなくても幸せを感じられるなんてすばらしい。
とずっと思っていたけれど、なんだか最近これでいいのかと思うようになってきた。
長男にお金を渡しても使わない。
必要なものには私がお金を渡してしまうし、そもそも計画的に使えるとも思えない。
本もある本を読んだり、立ち読みですませてしまうし
買い食いの習慣も、カラオケやゲームセンターなどのお金を使ってお友達と遊ぶ習慣もない。
物欲がないわけではないが、積極的に何か特別なものを欲していることも少ない。
そしてある日少しずつ貯めてあるお小遣いの小銭をまとめてもってきて
両替をして(大きくして)欲しいと言ってきた。
ああ、長男にとってのお金とは手に入ったら大事にとっておくものなんだ。
もちろん彼はお金で物が買えることを知っているはずである。
買い物を頼むとスーパーでお金を払って頼まれたものを買ってくる。
その過程は踏めるのだけど、自分で買いたいものを買うことはないのだ。
知識としてのお金、計算ができる数字の具体物としてのお金。
そして日常的に(自分とは関係のない中で)売買という取引に使う道具としてのお金。
彼にとってはそんな程度の認識だったんだ。
(そして小学校の支援級で教える「お金の学習」とはこんなものなんだろう)
お金を大事にするようにと言葉でも言外にも伝えてきたつもりだったけど
それは決定的な「お金は自分なりの使い方をして初めて価値が生まれる」という
当たり前のことが伝わっていなかったんだ。
だってお金を使わないことのほうがほめられるもんね。
お金を使わないからっていぶかしがる人なんかいないもんね。
お金に執着がないことって、一般的にいいことだもんね。
だからこそ私が生活の中で「自分にとって価値あることのもののために」
お金を使うことを、優先順位をつけたりと複雑なことを教える前に
しっかりと教えてあげなければいけなかったんだ!と気づいたのがつい先日。
お金をもっているだけでもなんにも面白くない。
自分がどうしても食べたいものを「高いけど、他を我慢して食べる」ことや
自分が行きたかったレジャーに使ったりして、楽しい思い出を作る対価にお金を払う。
生きているお金の使い方を、まだ未成年のうちに少なくとも感じてほしい。
将来お金を大事にできて、価値を見いだせて
お金に振り回されずにお金を使える人間になるために。
お金のことでトラブルに巻き込まれたり、簡単に巻き上げられたりしないように。
お金を使うことで自分の物質的な豊かさだけではなくて、
周りの人と楽しく過ごしていくためにも使えるということもわかるように。
高2長男の中間試験が終わった。
私が勉強のお膳立てをしなくてもそれなりに成果が出せるようになった。
今日は英検だったが一次試験は免除なので、日曜の大会の前の最後の部活に参加できた。
課題はまだまだあるけれど、ここまで来るのはホントに長い長い道のりだった。
長男は学校で高校生らしい学習は全くしていない。
そういうと語弊があるかもしれないけど、暗記で乗り切れる試験対策をしてくれている。
だから私が今までしていたお膳立て(わからなくてもいいからとりあえず
問題に答えられるように練習しておく)はほぼ完璧に、しかも出題者がやってくれる。
難しい問題に対してしっかり解答用紙に難しい答えを書いていると
あたかも理解しているようにも見える。
知識として増えていることはもちろん大事だし蓄積しているけど、
やっぱり考えて正解を導き出すというところは決定的に難がある。
そんなこんなで学校での勉強とは別に考える力を育てる工夫を家庭で並行している。
それが小学校時代と違うところ。
学校の学習に追いつく努力も無理して理解させる努力もしなくていいから
とってもへこんでいるところがあっても気楽に取り組ませられるようになってきた。
普通っていったいなんだろうとか、普通を目指すとか。
そういう段階は乗り越えたと思っていたけど、
長男なりの普通の社会生活を回していく場がある、
そう平和な日常がルーティン化してきた感触。
もちろんここからまだまだ手も目も気持ちも支援も必要なんだけど。
小さいことに一喜一憂しない彼に、感度が低いのかとモヤモヤしたり。
ある時にはそれがとてつもなくおおらかに感じたり。
でも彼なりの尺度、価値観での一喜一憂が明らかに存在する。
そのことが明確になったことが誇らしいような、晴れがましいような。
考えたこともなかったけど、彼の世界から見た私という個人はいったいどんな存在なんだろう。
小さなことにくよくよこだわり、自分の感情を他人に押しつけたり振り回したり。
そんな私をずっと受け入れ続けている彼こそが本当のインクルーシブマインドを持った、
私の理想像なのかもしれない。
お金だったり体裁だったり損得だったり人間関係だったり
うまくかみ合わないことを嘆いているよりも
人として豊かでおおらかな人生を歩める、「雨にも負けず」的な価値観。
青い鳥は実はうちにいたのよ、的な。
小さな変なことにこだわっていた私が一番おいてきぼりをくらっている。
私が勉強のお膳立てをしなくてもそれなりに成果が出せるようになった。
今日は英検だったが一次試験は免除なので、日曜の大会の前の最後の部活に参加できた。
課題はまだまだあるけれど、ここまで来るのはホントに長い長い道のりだった。
長男は学校で高校生らしい学習は全くしていない。
そういうと語弊があるかもしれないけど、暗記で乗り切れる試験対策をしてくれている。
だから私が今までしていたお膳立て(わからなくてもいいからとりあえず
問題に答えられるように練習しておく)はほぼ完璧に、しかも出題者がやってくれる。
難しい問題に対してしっかり解答用紙に難しい答えを書いていると
あたかも理解しているようにも見える。
知識として増えていることはもちろん大事だし蓄積しているけど、
やっぱり考えて正解を導き出すというところは決定的に難がある。
そんなこんなで学校での勉強とは別に考える力を育てる工夫を家庭で並行している。
それが小学校時代と違うところ。
学校の学習に追いつく努力も無理して理解させる努力もしなくていいから
とってもへこんでいるところがあっても気楽に取り組ませられるようになってきた。
普通っていったいなんだろうとか、普通を目指すとか。
そういう段階は乗り越えたと思っていたけど、
長男なりの普通の社会生活を回していく場がある、
そう平和な日常がルーティン化してきた感触。
もちろんここからまだまだ手も目も気持ちも支援も必要なんだけど。
小さいことに一喜一憂しない彼に、感度が低いのかとモヤモヤしたり。
ある時にはそれがとてつもなくおおらかに感じたり。
でも彼なりの尺度、価値観での一喜一憂が明らかに存在する。
そのことが明確になったことが誇らしいような、晴れがましいような。
考えたこともなかったけど、彼の世界から見た私という個人はいったいどんな存在なんだろう。
小さなことにくよくよこだわり、自分の感情を他人に押しつけたり振り回したり。
そんな私をずっと受け入れ続けている彼こそが本当のインクルーシブマインドを持った、
私の理想像なのかもしれない。
お金だったり体裁だったり損得だったり人間関係だったり
うまくかみ合わないことを嘆いているよりも
人として豊かでおおらかな人生を歩める、「雨にも負けず」的な価値観。
青い鳥は実はうちにいたのよ、的な。
小さな変なことにこだわっていた私が一番おいてきぼりをくらっている。