大津の中学生自殺事件について考える | 一日一思想

一日一思想

考えることは生きること

大津での中学生の自殺事件が波紋を呼んでいる。

被害者の男の子は長男と同じ年。

去年の11月に学校生活でいやなことはないかということを

それとなく話題にしたような気がする。


どこで起こってもおかしくない事件、と身近に感じていたが

 自殺の練習をさせていた、とか

 死んだ虫を食べさせていた、とか、

挙句の果てには親や学校、教育委員会が

 いじめの事実は確認できない、なかった

と主張するなど、ちょっと尋常ではない。


人権が損なわれ、教員ぐるみで見過ごし、

集団でいじめという言葉ではすまされないような

凄まじい学校生活を送らなくてはならなかったのだろうか。


社会全体が、学校を「義務」としているならば

(本来は教育を受けさせる義務であるが)

学校の生活自体が人権を脅かすようなことがあっては決してならず

これは管理教育がとか文科省がとか、そういうこと以前に

基本的に人としての倫理がねじ曲がっているとしか思えない環境が

同じ国に存在するということが恐ろしい。


小学校に入学させるときから

 『被害者にも加害者にもなりうる』

ということを念頭に置いて、常に目を光らせるように気をつけていたつもりだが

こんなとち狂った状況があるとは考えつきもしなかった。


  困った時にきちんと助けを求めることを大事にしてあげたい

  他人のことも自分のことも大事にできる人間に育てたい

そんな強い親の願いを打ち砕かんばかりの劣悪な環境。


しかし発達障害のある子は特にその傾向が強いのかもしれないが、

学校生活を送っている子どもたちは多かれ少なかれ

 「今の環境が当たり前」

と思う節もあると思う。

そして社会全体が

 「集団生活に我慢ができないのは根性不足」

という暗黙の了解も根強いだろう。


最近不登校の保護者の方と話をする機会があったけど

やっぱり「学校に行かなくてもいい」って言ってあげられるって

すごく勇気のいることだと思う。この社会の中で。

でも学校なんて行かなくてもいい、そんなに辛い環境ならと

誰も言ってくれないのが今の学校だろう。

いや、むしろ学校のどこに問題点があるのか、なぜ行きたくないのかを

学校側が掘り下げる気持ちのかけらもなくて

ただの不登校として片付けられてしまう無念さを抱えている保護者もたくさんいるだろう。


全ての子どもを個人として理解してくれるというのが

子どもの社会の大部分である学校生活の大前提であるはずなのに

同時に社会として同化する、集団からはみ出さないことを求められるという

愚かな矛盾が立ちはだかる限り、苦しみ続ける子も親もなくならないだろう。


いじめる側の心の闇も相当だと思うが、

こんな大事件(被害者は担任にも相談していたとか)を放置していて

一体何を勉強していたのだろうか、中学校では。


もやもやするなぁ。