タイトル---為政者に求められる姿。第1246号 24.05.16(水)
為政者に求められる姿
明治維新の政治だけに求められる為政者像の事ではなく、何処の国でも、時代の古今を問わずに、求められる政治家の模範像は、一つである。それは政治を受ける側の国民であり人民であり、まさしく一般人である。その方々が気の毒に思うくらい私利私欲に迷わない公平な全体に対する奉仕者として精一杯職責を果たす人間であると思われる。簡単なようでこれ程むずかしいことはない。人を治める人が自分を修めることが出来なくして出来るはずがないからである。
南洲翁の政治信条はまさに修己治人である。修己によって治人も果せる、又治人によって修己も完結に至ることが出来る。修己と治人は二にして一である。人間学という学問があるとすれば、己を修める学問も全く同じ道を学ぶ学問ということになる。自分に対して恥ずることは人様に対しても恥ずかしい事である。「身を修めるを以て本と為す」ということも判るような気がする。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)
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〔コメント〕 全くそのとおりでしょう。昨日、沖縄復帰40周年記念式典が開催されました。沖縄の米軍基地問題で、出来もしないことをしゃべった元総理も臆面もなく出席された、とある人から電話がありました。
沖縄の方々は「何しに来たのか」「またひっかきまわしにきたのではないか」というような言葉が報道されました。申し訳ないのなら、静かにして自宅で座禅でもしていた方が、後々理解されるのではと凡愚の私は考えるのですが、如何なものでしょう。為政者の皆様の政策は、動機は純粋だと思うのですが、実施にあたって少しく国民の感覚とずれているような処がある部分が見受けられるような気がしてならないのです。老人の私は、することがなく、こうして綴り方をすることによってボケ防止にでもなればと思って日々を過ごしています。