タイトル---瞬時の判断、足をガブリ。第1141号 24.02.06(月)

 

 幼児が悪戯をした時、貴方はどうしますか。あなたの顔を足の底で蹴ったとしたら。

 先週のことでした。いろいろあって顔をけられました。その時、口でいろいろ諭しても幼児はわからないのです。分からないから行動としてやるのです。


 分からないのにガダガタいうのは蒟蒻問答です。今の国会がそうです。


 先週、顔をやられた時、それこそ瞬時でした。足に噛みつけば痛いから、これからはやらないだろう、と瞬時に判断したのです。その時、幼児暴力団は、イターイと言いました。後で、俺はまだホケてないな、と苦笑いしました。今でも思い出し笑いをしています。

 私の空手道指導風景です。このように面白おかしく、子供を笑わせながら一つ一つ教えていかなければならないのです。

 男の子は100パーセント痴漢的要素があります。これは天がそのように生み出しているのです。それを法的に処罰されないように、相手に迷惑をかけないようにどう教えるかということです。

 テレビに出てくる教育評論家の言葉を聞いて、「うまい、さすが」だと感じたことはありません。彼らはチィットばかり頭がよかっただけのことです。

 ところが男の性は少々の説得では聞かないのです。ミサイルのようにと飛び立つ準備をしているのですから。そして私の子供に限ってそういうことはない、などと思い上がらないでください。そういう保護者は、10年位してから大変な目に合うのです。


 天風師はお茶を飲むとき、ご飯を食べる時、これが私の命をつないでくれるのだ、活かしてくれるのだ、と感謝しながら戴いたそうです。喀血していて今日が最後、今日が最後と、祈るような気持ちで50年間生きたということです。


 ところが今時の公務員は、民間の人たちよりか余計に金を手にするくせに、金が足りない、生活が苦しい、賃金を上げろと言うのです。生活が苦しいといいながら、錦江湾に一千万円もするヨットを浮かべている御仁もいるのです。

 とにかく、贅沢をせず、謙虚に、楽しく、捧腹絶倒しなから人生を歩けたら最高だと思いませんか。開聞岳の山男先生は、貴方も、足にガブリとやりましたか。

 これが幼児への愛情なのです。

タイトル---どんな人にも大慈大悲の仏心がある。第1137号 24.02.04(土)


『菜根譚』 45

〈人々に個の大慈悲あり、維摩(ゆいま)・屠劊(とかい)も二心なきなり。処々に種の真趣味あり---〉


〔訳文〕 貴賤を問わず、どんな人にも、大慈大悲の良心というものはあるもので、維摩のような大徳の居士も、屠殺業者や死刑執行人のような賤業の者も同じで、その心に二つはない。また、貧富を問わず、どんな処にも、真の楽しみというものはあるものである。(一部修正)


〔コメント〕 上の解説で「屠殺業者や死刑執行人のような賤業--」と訳されていますが、その人格まで辱めているのでしょうか。としたら、これには異論があります。屠殺業をしている方を何人か見てきましたが、心根は全くきれいな方が多くいました。たまたまそういう仕事をせざるを得なくなったということだと思います。


 寧ろ政治家で数億の金を手品師みたいに、右へ左へ動かしたとされる人がいますが、こういう人の心根こそ問題視すべきでしょう。精神論で行くと、政治家の姿勢にこそ首を傾げざるを得ないと思います。

 明治の政治家は、金使いが荒かったと安岡正篤先生も著書に書いています。が辞めた後には隠した金など殆どなかったと紹介しているのです。角栄さんにはそれがなかった、と。

 それに比し、二世三世議員でそういう人がいるでしょうか。吉田茂が五賢堂に名を連ねているのはおかしいと思っている人が多くいるのではないでしょうか。


 昨日のNHK放送でお笑芸人が、橋下市長が威張っているから大嫌い、という言い方をしましたが、橋下市長は何も威張っているとは私には思えないのです。彼は正論を吐いていると観察しています。

 官僚らが、したい放題、金は使い放題をしているからこそ、そこにメス入れようとしているのだと解釈しています。  

 若い人々が、仕事もなく、金もなくその日ぐらしをしている人も数多いるのです。お笑い芸人が、身を粉にして人々のためにしているでしょうか。橋下氏は、命がけで実践しているのだと観察しています。

タイトル---西郷研究家・しいばたかし様が見えました。第1134号 24.02.01.(水)

 

 日本音楽著作権協会 作詞・作曲会員 しいばたかし 様が、昨日見えました。西郷隆盛の生涯に興味を持っておられ、その人格美にも敬愛の念を抱いているという熱血漢の方でした。


 たまたま、南洲神社前の藤崎商店に行き、西郷隆盛の生涯とか、『南洲翁遺訓』に興味を懐いていること、荘内の方々にもお会いし聞きたいことがあるとのことを話したら、西郷先生の遺徳を訪ねる旅行団が3月2日、鹿児島に来るということを聞き、世話役の私と電話で話したのでした。


 拙宅に見えて、西郷隆盛の生涯等々を熱弁をもって話してくれました。西郷の晩年に不幸な結末がなければ、世の中、どう変わったでしょうとお互いお話しました。


 谷山タイヨーのあたりから電話が来たので、途中までお迎えに行きました。津曲グラントの処で待てど暮らせど来ないものだから、お車はどういう種類ですかと聞いたら歩いてくるのだということを聞き、途中までお迎えに行きました。


 音楽のプロであり、FM放送にも出演しているということでした。いろいろ書くのが好きで、シナリオ書きなどにもむ手がけているとのことでした。

 私が過去あったこともない、音楽のプロのお話に聞き入った次第でした。




節宅に藤崎さんに話した処、

タイトル---人民の標準となり『南洲翁遺訓』。第1132号 24.01.30(月)

 

〈萬民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して人民の標準となり、下民其の勤労を気の毒に思う様ならでは、政令は行われ難し。〉第四章


 ここでは、日常的に子供たちに説明している解説を紹介します。議員の経験もない私ごときが、天下国家を論ずると、お前馬鹿か、と言われないでもないからです。


 〔訳文〕 人々の上に立ってお世話をする人、例えば学校でクラス委員長をしている人は、自分の行いをつつしみ、よい行いをし、おごりたかぶることをしないで、節約をして、仕事・役目をまじめにつとめて、人々の模範にならなければいけません。

 そのしごとぶり、まじめさがひとびとからみて、きのどくだと思われるくらいでないと、みんなで決めた約束事は守れないのである。


〔コメント〕 子供の年齢に応じた教え方・解説をしないと子供には理解できないし、真剣にききません。私は4歳児、小学低学年・高学年とそれぞれ理解しやすいように解説しています。だから円心会の子供たちが真剣に覚えてくれるのです。

 やがて子供たちが長ずるに従って真の意味が分かってくるのです。

 

 『南洲翁遺訓』を学んで30年が過ぎました。『南洲翁遺訓』は西郷南洲翁の言葉を、荘内の菅先生を筆頭とする方々が文章化したわけですが、これは単なる言葉ではなく、まさしく天の声・教えなのであります。

 『南洲翁遺訓』を学ぶと同時に、安岡正篤先生の著書、中村天風師の著書を拝読し、宇宙自然の論理と符号することが理解できました。これを学べば、人生、間違いはないのです。これを人間学というのです。現政権がするバラマキは天に唾する行為だと思います。

 再度、

 『南洲翁遺訓』とは、

---西郷隆盛の人物像と、西郷隆盛の肺腑から出でた言々を、荘内の藩士たちが咀嚼し、練りに練って、命に代えて、荘内精神の奥義として世に吐露したものなのであります。


 それは西郷隆盛が一番理解していたことなのです。だから、菅先生と相会して、菅先生を思う心境を漢詩として、西郷隆盛が残しているのです。

 従って、西郷隆盛と会ったこともない人間が、『南洲翁遺訓』を改竄するなどという大それたことがあってはならないのです。これは天の命に背くことなのです。


タイトル---心の念入りな者は『菜根譚』。第1129号 24.01.28(土)


 『菜根譚』 41

〈念頭の濃やかなる者は、自から待つこと厚く、人を待つこともまた厚く、処々皆濃やかなり。念頭の淡き者は、自から待つこと薄く、人を待つこともまた薄く、事々皆淡し。故に君子は、居常(きょじょう)の嗜好は、(はなは)だ濃艶なるべからず、また宜しく太だ枯寂なるべからず。〉


〔訳文〕 こころねの念入りな者は、自分自身に対して手厚いが、他人に対しても手厚く、何事につけどこででもすべて念入りにすぎる。(これに反して)、こころねの淡泊な者は、自分自身に対してあっさりしているが、他人に対してもあっさりしていて、何事につけどこででも、すべてあっさりしすぎる。そこで君子たるものは、平素の好みとしては、あまりに念入りで派手であってもいけないが、だからといって、あまりにあっさりし枯れてしまうのもよろしくない。


〔コメント〕 これは一般論を述べたものでしょう。時に応じて自在に対応する、ということが望ましいでしょう。これは数多くの経験を経て処理できることであると思います。

 今回で41章まで紹介しました。書店に行けば『菜根譚』はありますので、お求めになりお読みになることをお薦め致します。岩波文庫がよろしいかと思います。