タイトル---真理瞑想行について。第1156号 24.02.18(土)


 第1155号に続きます。


〈悟りというのは、自分の心が真理を感じたときの心の状態をいうのである。したがって、真理を、自分の努力で自分の心で感じるのも、人の悟りを耳から聞いて自分の心に受け入れるのも、受け入れ方に相違があるだけである。受け取ってしまえばその結果は同じである。真理を受け入れるときの心の態度が、悟りを開く上に密接な関係があるからこそ、安定打坐で心をきれいにさせているのである。


 本来人間は、改めて真理をいろいろ説き聞かされるまでもなく、この世に生まれ出た時から、絶えず真理に接し、真理の中で生きているのである。しかし、ちょうど魚が水の中で生きていながらそれを知らないのと同様に、真理の中にいながら、この真理をなかなか自覚することができないのは、要するに心の中に雑念妄念があるためであり、本当に心が清い状態であれば、真理はすぐに発見できる。ちょうど頭の上から帽子をかぶせられているように、きれいな心の上に雑念妄念がおおいかぶさっているために、真理の中に生きていながらその真理を悟ることができない。

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 何回か読みましたが、こうして書いてみると理解度がよりますような気が致します。天風師の教えは、いくらやりすぎても損失を被るということはありません。こういうことを書くと天風会の人に怒られるかもしれませんが。

 最近、あるタレントが霊能者に騙されたとかのテレビ報道がありますが、そういう心配は全くないのです。是非、天風師の本をお求めになり、読まれることをお薦め致します。

タイトル---昨日、空手の舞の指導をしました。第1152号 24.02.14(火)

 

 昨日、空手の舞の稽古に二人の女児がきました。半年前から稽古を始めている海江田嬢の勘の見事さは抜群です。二日前の第二道場での猫足手刀受けを見て、その見事さ素晴らしさに、思わず絶句したのでした。そして所作も。


 昨日は母上様の前で同様の技をさせました。少ない人数での稽古だと目が行き届くから、指導者も習う方も大変いいのです。人数が多すぎると、ふざける子供がいて、真のマナーの修得にはつながりにくい面があります。

 因みに、日本舞踊は師匠と一対一で習うのです。昨日の女児は子供だから、何も分からないのですが、母上様は見てどうお感じになったでしょう。 


 これは単なる空手と舞の稽古ではないのです。人間修行なのです。お辞儀の仕方、立ち居振る舞いのお作法の修行なのです。おうちでしたい放題で甘やかしているから学校の先生方も大変だろうと思います。尤もこういう世の中にしたのは学校の先生方なのですが。


 修行の年輪は凄いものを人間に構築してくれます。技術と精神性のことです。こういうのは学校の先生では駄目でしょう。彼らは大学で勉強しただけで、人間修行をしていないからです。日本舞踊を稽古しましたか。社交ダンスをしましたか。そういう芸事の中に人間が生涯培わなければならない人の道があるのです。


 このブログをご覧になられた方は謙虚に聞いてください。あなたの子供が市橋君みたいにならないと断言できますか。学校ですこしばかり成績がよいからと言って有頂天になってはだめなのです。思い上がったら天の警告があるということを漢籍を繙き、そして中村天風を学びわからせて戴きました。


 先週手紙が来た宮城の成年に親切な対応をしてあげましたが、人が救いを求めてきたら、助けてあげなければならない、とは私の主義です。今まで相当の人を導き助けて参りました。

 西南の役で西郷軍に従軍し戦死した若人たちを見て、評論家が西郷隆盛をなじる人がいますが、見当違いも甚だしいです。

 彼らは西郷隆盛という人間の人格に魅せられて行動を共にしたのです。人の命の尊さは理解できますが、命まで投げ捨てて従軍した人々の崇高な使命感にこそ、気概にこそ、目を向けるべきなのです。


 先ほど大坪先生とサンロイヤルホテルに言って参りました。3月2日、荘内の皆様をお迎えして交流会を開催する訳ですが、会場の下見にいったのです。

 

 サンロイヤルホテル職員の窪田様の対応はお見事でした。プロであるとは申せ、挨拶の仕方、お部屋への案内、言葉遣い、最後の見送りまで、非の打ちどころのない対応でした。


 窪田係長様、有り難うございました。


 こういうことには殊の外目が行く私の目からみても100点満点であったと思います。当日は何卒よろしくお願い致します。交流会終了後、お届けした看板は取り外し、同道した大坪師範へお渡しくださいませ。


タイトル---昨夜は薩摩南洲会を開催しました。第1150号 24.02.13(月)


 昨夜は薩摩南洲会を賑々しく開催しました。教本は荘内南洲会・理事長小野寺理事長著『南洲翁遺訓』と『立運頭山満先生講評』でした。


 『南洲翁遺訓』は第30.31..32章を学習しました。小野寺理事長の『南洲翁遺訓』にある「意訳」「講究」の訓戒は小野寺理事長の足跡と座標軸は同じだと解釈しています。素晴らしい限りです。


 荘内の菅実秀先生、菅原先生、長谷川先生、小野寺先生方の西郷南洲翁を通じての国民啓蒙の精神を是非学んでほしいと思います。


 吉田茂は五賢堂で五人の方々を祀っていますが、南洲翁の方が歴史的には遥かに素晴らしいと思います。読みそのものが違うのです。


 鹿児島南洲神社でも同じ学習をしています。そこでは『南洲百話』を活用していますが、小野寺理事長の『南洲翁遺訓』をどしどし活用して貰いたいものだと思います。そうすれば、学習会に集う人々の精神に、頭脳に良薬を与えてくれると確信します。それだけ荘内の先生方が、西郷隆盛の人格を世の人々に理解して欲しいとの精神の境地が読み取れるのです。


 政治家諸氏もこれらを活用し、南洲翁遺訓と座標軸を一にすれば永遠の美名があたえられるのにと思うと、学ばない人たちに憐れを感じます。


 『南洲翁遺訓』を学びましょう、それは貴方のためなのです。

タイトル---頭が良い人と、賢い人。第1147号 24.02.10(金)

 

 人間には運命と言われるものがありますが、その運命が自分にどうかかわって来るかはわかりません。はっきりしていることは、生を得たものは必ず閉じる時が来るという厳粛な事実です。

 思うに、運命が人を左右するのではなく、人が運命を左右すると思います。

 生きている間、努力すれば道は拓けてきますし、いい加減に過ごせば道は拓かれないであろうし、果報も手元には届かないでしょう。

 人生は日々の積み重ねです。その日その日を如何に有意義に生きるか、が要諦なのです。

 人はとかく頭で競いがちです。それは当然でもありますが、同時に賢明でなければならないと思います。如何に頭が良くても、精神のひんまがったずるい人には良い成果は期待できないでしょう。

 運命が人の幸不幸を決定するのではなく、頭のよしあしが決定するのではなく、頭の良さに加えた賢明さが決定するのだと思います。


 今日一日を充実したものにしようではありませんか。例えば作家の書いた作品を筆写してみるというのもいいでしょう。大事なことは途中であきらめないということです。決めたことはやり遂げることが肝要なのです。

 その作業が10年かかるとします。そうすれば10年の歳月を生かしてくれるのです。そういった知的作業の成果は本人が想像もしなかったものが構築されるのです。

 勤勉に、真摯に、継続し、忠恕の精神で、人様のお役にも立つようにと、やり続けることが出来る人にして、はじめて天の朗報が舞い込んでくると信じます。

 その時、真の幸せと充実感が生まれるのだと信じます。

タイトル---福は事少なきより福はなく『菜根譚』。第1143号 24.02.07(火)


 『菜根譚』 49

〈福は事少なきより福なるはなく、禍(わざわい)は心多きより禍なるはなし。唯だ事に苦しむ者のみ、方(はじ)めて事少なきの福たるを知り、唯だ心を平らかにかる者のみ、始めて心多きの禍たるを知る。〉


〔訳文〕 人生における幸いは、何ごともないことが幸いであり、災いは、気が多すぎることくらい災いでないものはない。

 かねがね、何かとできごとに翻弄されているものだけが、無事平穏であることが幸いであることをしり、日常的に心を平静にするよう心掛けている者だけが、何かとふりまわされているのが災いのもとであることを悟っている。(訳筆者)


〔コメント〕 身体が悪く病院に入退院を繰り返している人は、身体の構造・内臓などに大変くわしいです。私は、オヘソがどこにあり、チンコロリンがどこにあり、オチチがどこにあるくらいは知っていますが、後は全くわからないのです。これは、どこも異常がなく、元気だからだと思います。

 

 昨昨年、枕崎に行った時、ある方のお悔みに伺いました。そしたら後輩の男性がおり、私の背筋がまっすぐなっているのを見て、何処も、どうもないんですね、といいました。

 私は悪い処だけです、とすかさず答えました。そしたら件の男性が、どこが悪いのですか、と聞きました。

 「ビンタ(頭)と ツラ(顔) と スタイルがワイカド」と答えたのです。傍にいて聞いたおばさんが、吹き出しました。

 くだらんサプリメントを飲むよりか焼酎の白波が一番いいと思います。ダレがヤムからです。