タイトルは別に悪くないですね。


タイトルだけならね。


今週の記事は、パウロのフィリピの言葉から、どのように
・愛の豊かな人になる
・より重要なことを見極める
・正しい実を結ぶ
ことができるか、というものでした。

ただねえ。
全体を通して感じたのは、適用を狭めているという印象でした。まあ、後で突っ込みます。

とりあえず内容です。
・パウロはフィリピのクリスチャンに上の3つを行うよう勧めた。
・神を愛するために、聖書を読み、学んだことを思い巡らすことができる。
・人の不完全さに注目するなら、愛が冷える。

以上です!

おいおい後半の2つがないぞ、と言われそうですが、結局宣べ伝えることを強要してるだけなので省きました。



では突っ込みです。


まずは4節。
パウロ​は​フィリピ​の​クリスチャン​に,「いっそう​愛​の​豊か​な​人」に​なる​よう​勧め​まし​た。どう​すれ​ば​エホバ​を​いっそう​深く​愛せる​でしょ​う​か。

適用を狭めている1箇所目です。
愛を示す対象を、なんの前振りもなく「エホバ」に限定しているのが、引っ掛かりました。

もちろん神を愛することは大切です。また、後で隣人を愛することについて触れています。
でもこの進め方だと、パウロは神を愛することだけを念頭に「いっそう​愛​の​豊か​な​人」に​なる​よう​勧めたように受け取れます。
私の考え過ぎですかね?


そして2箇所目。6節。
エホバ​が​豊か​な​愛​を​表し​て​くださっ​た​の​ですから,私たち​も​愛し合わ​なけれ​ば​なり​ませ​ん。(ヨハネ​第​一 4:11,20,21​を​読む。)兄弟​姉妹​を​愛する​の​は​簡単​だ​と​思う​か​も​しれ​ませ​ん。

愛し合う→兄弟姉妹を、と適用を狭めています。
イエスは誰を愛するように言ったんでしたっけ?
自分の兄弟姉妹たちだけでしたか?
さらに、隣人とは誰ですか?と聞かれたときに、どんな例えを話されたんでしたっけ?

なぜ、愛する対象を、問答無用で兄弟姉妹たちに限定するのかが理解不能です。


次は11節。
何​に​よっ​て​人​の​信仰​を​妨げ​て​しまう​こと​が​ある​でしょ​う​か。例えば,自分​が​選ぶ​エンターテインメント​や​服装​や​仕事​です。

服装って、高価な腕時計やピンキーリングですかね?

冗談はさておいて、つまずく理由はもっと他のものが多いと個人的には思います。
ここでは、服装、仕事、エンターテイメントしか出てませんが、そんなのは個人の決定なので、大してつまずかせないように感じます。
むしろ、会衆内で重く用いられている人や、組織で上の立場にある人の言動の方が、よっぽどつまずかせると思います。

あえてそこから目をそらさせるために、服装だ、エンターテイメントだに限定して話を進めている、というのは、うがった見方でしょうか。



最後に15節から2箇所。

「正しい​実」に​は,エホバ​と​エホバ​に​仕える​人​たち​へ​の​愛​が​含ま​れる​に​違いあり​ませ​ん。
この​最も​重要​な​仕事​を​一生​懸命​に​行う​なら,「正しい​実」を​生み出せ​ます。

これもひどく適用を狭めていると感じました。

パウロがどんな意味で「正しい実」と言ったのかは、ちゃんと聖書を研究している人に任せますが、少なくとも「エホバ​と​エホバ​に​仕える​人​たち​へ​の​愛​」とか限定してはいないでしょう。
しかもここでは「違いありません」とか書いて、内容を強めています。

2番目の箇所もです。
言わずと知れた宣教についてですが、「正しい実」ってのそんな限定されたことなんですか?
カートのそばでだべってたり、牛歩のような奉仕をするのが、そんなに立派なことなんですか?
私にはそうは思えません。



つい最近ネットで読んだ外国のニュースで、親切なことをした人が話題になっていました。
その人がやはりクリスチャンだったようで、インタビューにこんな風に答えていました。
「神が第一。家族が第二。そしてすべての人が家族。」



「愛の豊かな人」っていうのは、どっちかというとこういう人のことじゃないですかね。

今週は以上です。

良かったー。
金曜日にアップできたー。


ただし!
明日はヤバいレベルの台風らしいです。
前回千葉で停電などのひどい被害を出した台風より、はるかにヤバいらしいので、間違っても集会とか行かない方がいいと思います。