今週の記事は思いやりを表すことについでです。
キリストに倣って思いやりを示すのはもちろん良いことだと私も思います。
ただねぇ。
タイトルにも有るように「会衆で」って限定してるんだよねぇ。
隣人は自分の民族だけじゃない、ってイエスは教えてたはずなんだけどねぇ。
では内容です。
・エホバは愛の神。思いやりを示す最高の手本。
・ ご自分の民の苦しみを我が事のように感じ、助けるために行動された。
・イエスも思いやり深く、人を気遣われた。
・イエスは人間として生活し苦しみを経験されたので、私たちの気持ちを思いやる事ができる。
・私たちも神やイエスに倣い、他の人の気持ちに寄り添い、なにが必要かを察して行動するように努力できる。
こんなところです。
今回の突っ込みは最初に書いた部分が大きいです。
せっかく思いやりを表すのに、会衆内に限定する必要はどこにも有りません。
何が馬鹿らしいって、この挿し絵です。
仲間に声をかける。年配の仲間に援助をする。仲間の相談にのる。
どれも良いことですが、普通に考えたらあたりまえの事でもあります。
特別に思いやりを示した例としては、あまりにも貧弱です。
この挿し絵のせいで、この程度で、「自分は神に倣って思いやりを示している!」とか勘違いする奴がまた大量生産されるかと思うと、本当に馬鹿らしいです。
わざわざ具体例を出さなくて良いと思いますし、出すならもっとあらゆる分野であらゆる相手に思いやりを示す例を出した方が良いと思いました。
18節の例も同様です。
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会衆の十代の人,病気の人,高齢の人,家族を亡くした人に関心を向け,様子を尋ねることができます。
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こういう記事があると、すぐここだけ当てはめようとする阿呆が出てきますが、肝心なのは行動ではなく思いやりです。
今まで全く親しい関係を築いて来なかった人間が、いきなり「様子を尋ね」たって、胸の内なんか話せませんし、何の慰めにもなりません。
どうも、例がステレオタイプで陳腐なんですよねぇ。
あと、重箱の隅をつつくようで申し訳ないんですが、気になった箇所。
8節。
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イエスは天の父エホバとそっくりな性格をしていました。
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なんか、言い回しが軽くなってませんか?
以前なら「イエスは天の父エホバのご性格を完全に反映しておられました。」とかになりそうですが。
新しい聖書について、皆さんが記事にしておられたようなのと、同じ違和感を感じてしまいました。
学のない人でも理解できるように、という配慮ならこれはこれで有りなのかもしれません。
でも、日本語は言い回し一つで、相手を尊重しているかどうかが分かる言語です。
創造者である神と、その初子であり救い主であるイエスの関係を表すのに、「そっくり」はやっぱり違和感を感じますね。
私だけですかね?
あと。これも重箱の隅をつつくようで申し訳ないんですが。
イエスが耳の聞こえない人を、群集から離れたところに連れて行ったことについて。
なんで連れて行ったのかが聖書にかかれていない以上、その理由は全部想像でしかないのであんまりそこに注目させなくて良いのになぁと思いました。
今回の記事は「組織に従え!」とか「ブロードキャスティングをありがたく観ろ!」とかが無かったので、まだ落ち着いて読めました。
今週は以上です。
