もうまもなく引っ越してしまう。

(可愛い賢い子なので普通に寂しい。)

今日、お父さんに渡してね、とお手紙を渡したら、「ありがとう!」と思った以上に喜んでいた。

ただ、お父さんもインドネシア人で、ひらがなは読めるけど漢字が読めない、とのこと。

そういうこともあろうかと一応ルビを振っていたんだけども、もう少し簡単に書き直そうと思う(見た目日本人ぽくて分からなかった)。あと、英語ならわかるとのことで、英語でも簡単なお手紙を書こうと思う。

ところで、東京で、車も電話もなく、どこかのイオンに行けるのかなという思いはあるけれど、わたしができることは、そこまでしかない。


お友達などが「この子のランドセル壊れたんだよ。」と言ってきたときに、すぐ動けたら間に合ったかもと思わずにいられないけど、その時はそこまでの事情を知らず、仕方なかったとしか言えない。


ピカピカのランドセルを背負って、新天地で幸せに暮らせますように。

ここのアメブロのある方のを読んでいて、とても思うことがありまして、煮え切らないので、そうだ、自分も自分のブログに書くことにしようと思い書くことにします。


持論です。


発達障害という言葉が広がりだして、15年ほどだそうです。


医療や自治体は、そこに向けて変わっていこうとしています。

でも、直接子どもたちに関わる教師(子どもを教える立場のプロ)の考えが古いままなことがあります。


わたしが拝見したブログというのは、塾講師を経て家庭教師をされている方だけど、『検査はしなくて良い。不安になってもいいことがない。幼少期は親の躾次第だ。それよりも勉強は努力だ。』というような持論を書かれていました。


両親は不安だから先生に相談したのに、これじゃあなんの解決にもなっていません。


そこで思うのは、こういう考えを持っている方が、この方だけでなく、けっこうな割合で学校・園含めた教育界にいるということです。

伸びる芽が潰されてはいないか?という不安があります。

特に、ベテランの先生に多いです。自分はたくさんの子ども達を見てきた、という自負のある方。


でも、そういう方は、見てきているだけで、落ちこぼれを落ちこぼれとして置いてきているのだと思うんです。

「授業聞かないなら廊下に立ってなさい!」「忘れ物したなら廊下に立ってなさい!」というのが当たり前の世代です。それがヨシとされていた世代。


でも、それが繰り返される子は、普通の子(普通というか、日本の普通教育に努力なく馴染む子)が出来ることが、頑張っても出来ない子なのかもしれません。

それは、育て方ではなくて、先天的なものです。

そういう子のお尻を叩いていては、自信喪失・引きこもり・うつなどの二次障害を生み出しかねません。


それがわかってきているのに、いまだ、根性論を唱える人がたくさんいます。努力が足りない、はたまた育て方が悪い。。と。そういう考え方は誤っています。


努力が足りないのは、一片しか見ていないからわからないだけであって、多大なる努力をされています。普通の日常を送ることに。

たまに、心中なんて事件もありますが、そういうことが頭によぎるほどに悩むこともあるでしょう。


検査はした方がいいです。それもなるべく早いうちに。

そして、苦手なことがわかっていた方がいいです。

全ての教育者がそこを理解して底上げをすることが理想です。なので一人で大勢を見られないなら、支援級や支援学校や支援教員を増やすしかありません。


情緒障害ならドラゴン桜2の健太くんのように、伸びる素質のある子もいます。学習障害なら、みんなと一緒に勉強することは苦痛しか生みません。個別が必要です。


子どもの心配をされる方には、相談者を選んでいただきたいなと思います。

子どもを預ける相手も、選べるといいなと思います。(習い事の先生は選べても、毎日会う担任の先生は選べませんね。)




お母さんは日本語がわからないとのこと。日本語がわかるのは、離れて暮らすお父さんとその子と妹のみ。

そしてお母さんは多忙なため、構ってくれない。先生も新任で構ってくれない。


携帯がないからお父さんとは電話していない。

車がないからお店にも行けない。


どんな大変なんだろう。


放っとけって言う人もいるんだけど、放っとけるわけない。

そういう人は、人の手助け無しに生きていたの?と思う。

海外から赤ちゃん連れて旦那様いなくてどんなに心細いかとしか思わない。


お父さんにお手紙を書こうかな。

引っ越してから、読んでもらえばいいと思う。


その子は「ランドセル買う。」という。

よくよく聞いてみると、ランドセルが欲しいのではなくて、笛を吹くマネ。防犯ブザーが欲しい様子。みんな持ってるって。


それは買えばいいのだけど。