Translator’s soliloquy -6ページ目

Translator’s soliloquy

翻訳家の独り言

セルフジャッジ

私がテニスを始めたのは1970年代。今はどうか知らないが、当時の高校硬式テニスの公式大会では、敗者が次の試合のチェア・アンパイヤを務める、俗に「負け審」と呼ばれるシステムが罷り通っていた。敗戦のショックに加え、体力・精神力の消耗を押しての審判だから、正直いってこれはかなりコタえる。何より、晒し者にされるような屈辱感が耐え難かった。

しかし、である。

今にして思えば、それが良かったと感謝の念さえ覚えるほどだ。他人の試合の審判を務めるという行為が、テニスというスポーツをより深く理解し、しかもマナーの向上に役立つことは、想像のほかである。「ザ・ベスト・オブ・3セット・マッチ、何某サービング・プレイ」と、律儀に試合開始を宣したものだ。懐かしいなあ。

あれから数十年を経た今も懲りずに草大会に出たりしているが、審判をやらされることはないかわりに、審判つきでプレーする贅沢も失われてしまった。現在では、よほどか大きな大会でない限りセルフジャッジがお約束である。ネットを挟んで互いに相手方が打ったボールを判定するこのセルフジャッジが、実は思った以上に厄介な代物なのだ。

審判の権限が及ぶのはネットのこちら側、即ち自軍のコートサイドのみ。自分が打ったボールは通常ネットの向こう側に飛ぶので、その判定は対戦相手に委ねることになる。つまり、どちらも自分に有利に判定しようと思えばできるのだが、それはしないという紳士協定でこのシステムは成り立っているのだ。

万事につけ世知辛くなってしまった現代では、一方的に相手の善意に期待するこのようなやり方は、ナイーブに過ぎるとも言えそうだ。対戦相手が紳士に非ざるの行動に及んだ場合、不利に立たされるのは明白で、それで負けてしまってもいいのか、ということになる。厄介だと書いたのはそういう意味で、「向こうがその気ならこちらも」と、泥仕合に発展しないとも限らない。そこまでいかなくても、あとまで根に持ったりすれば同じことなのだ。

そういえばテニスはその昔、紳士淑女のスポーツということで人々にもてはやされていたのであった。異論も多々あろうが、精神の気高さが求められるという発想で、このシステムを再認識したいものだと思う。セルフジャッジを巡る問題は一挙に解決するだろう。

ところで、近頃喧しい集団的自衛権問題。世界でただ一国、国際紛争を解決するための戦争を永久に放棄し、そのための軍備を持たないと約束した憲法第9条は、自分も相手も共に紳士であることを想定しているという意味で、セルフジャッジに似ていなくもありませんね。