足腰が弱ってきたなと思ったら、それからいくらも経たないうちに、あれほど旺盛だった食欲がガックリ落ちた。選り好みをしていた間はまだいい方で、じきに何をあげても食べようとしなくなる。獣医の説明によれば、老衰のせいでごく自然なことだという。ついに自力で立てなくなり、水分補給だけで一月ほど長らえて、30キロの体重が半分以下になった頃、静かに旅立っていった。
最後の一週間ほどは昼夜分かたず付き添っていたが、フリーの翻訳家でなければこうはいくまい。いい職業を選んだものだ。かくいう私が、時間と場所を気にせずに済む仕事に就きながら、犬を飼うという選択のせいで旅行もままならぬ。皮肉なものである。
さして忙しくもなかったので、愛犬の最期の姿をスケッチしてみようかと思い立った。絵を描くなんて何年振りのことだろう。ままよ。慣れない手付きで6Bの鉛筆を動かしていると、不思議なことが起きた。
最初にそれに気付いたのは、まばたきがきっかけであった。集中してものを見るときは極端に回数が減るものだが、今はもう焦点も定かでない愛犬の瞳が、私とほぼ同じタイミングでまばたきを繰り返しているように思えたのだ。

試みに間隔を変えてやってみると、どうやらヤツも意識的にそうしているらしい、ということが判ってきた。間もなく止めてしまったのは、たぶん疲れたか、さもなければ私の恣意性を感じ取ったからかもしれない。だが、肝心なのはそのことではない。
写生という目的を与えられたとき、対象を見つめる眼差しは自ずとその純度を高め、見つめられる側もこれに感応して、両者の間に精神的な同期が起きるのではないか、という気がしている。そのとき私が感じていたのは、「やすらぎ」と呼ぶほかないもので、愛犬も同じであったという確信が私にはある。至福の時間だ。
一週間ほどの間に薄っぺらなスケッチブックの紙面が尽きて、新しく買い足さなければならないなと考えていた矢先、私が写生をしていたまさにそのとき、愛犬は深く息をついて文字通り安らかに逝った。彼の心臓が最後に打った優しい鼓動、その感触が今も私の掌にありありと残っている。
いい看取りをしたものだとつくづく思う。