私が若かった頃30年以上昔の話、基本的なことは昔からの習わしや解釈を持って考えるように学んでいた。
その最たる考えの一つは、会社や組織を占う時はトップを視よ!と、言う考えだ。
例えば安倍晋三総理が誕生した時、占い目線で見れば子孫繁栄に無縁なトップが誕生すると、業績を上げることは秀でても、それは家族や家庭に還元されるモノではなく、後継者問題に向き合わねば最終的に何も守るモノが何もなくなり、その有り様が反映すると。
なので占いの古い解釈では、バリバリ仕事だけが出来るエリートより、家庭や子供に恵まれ多少不器用でも、そのような人をトップに置いておいた方が組織の未來は安泰するという考えがある。
しかしこの考えは時代遅れで、今の時代に合わない、むしろ差別的な考えくらいに思っていた。
私も若い頃から占いの原理原則を知ってしまっていたので、古い考え方より合理的にいかないと世間に通用しないとまで思っていた。
しかしそれでも、子孫繁栄というのは一番大切なことなので「健康なうちに子供を作りなさい」とか「子孫を残さなければ今は良くても後で絶対後悔するから」と言って、煩型(うるさ型=煩いオバチャン)の占い師を続けてきた。
ただイマドキの考えで安易に「子供がいないステータス」に走ると、その未來は授かりたくとも授かれない、そんな悲しい顛末が訪れる!というのが古い考え方だ。
この考え方が、安倍晋三氏の就任から一抹の不安として残っていて、どんなに能弁で海外に出しても恥ずかしくない総理で、国を思う愛国者であり保守的なパフォーマンスを繰り広げられても、それが実質的な繁栄として国民の生活に反映しないことで、懸念していたことが現実化していると思った。
働けど働けど我が暮らし楽にならざり
みたいな。
気が付けば、その恩恵は総理と個人的な企業や繋がりだけに反映され、さらに東南アジアや世界に進出する企業家は、どこかミーハーで自らハニトラにかかりに行くような勢いがあり、家族のことより、とにかく今を「この世の春」とばかりに謳歌し、世の勝ち組に軒を連ねて承認欲求を満たすような人間に豹変していた。
「今だけ俺だけ自分だけ」
そして、加速したのは子孫繁栄に程遠い社会。
10年以上長きに渡る不妊治療により癌になった方が現れ「もっと早く出会いたかった」と悔やまれたり、私も早く力になりたかったと悔やんだり。
社会の闇は身近なところにまで潜み
今では世の末とばかりに、子供にも人体実験でワクチンをするような社会になった。
今や私の周りは、一族三世代~四世代目に進む勢いで、出産や名付けの嬉しい相談が数多く舞い込むようになったが、まるで世間は逆行している。
きっと占いの原理原則を教えて下さった師匠のような存在に言わせれば「日本のトップにどのような人を置くかによって、日本の未來は変わる」と、その言葉の重みを痛感せざる得ないのである。
死に物狂いのように本当に辛い不妊治療をしてまで子供を授かりたいと必死な方もいれば、スタイルが崩れるのがイヤで子供を産みたくないと公言する人もいる。
育児放棄の嫁を尻目に必死で3人の子育てをするお父さんもいれば、家督や家を継ぐことに縛られるよりは、夫婦で気楽に子供のいない生活を楽しみたいという人もいる。
多様性は昔からある、しかしそれに順応していないのが世の流れであり。
跡取りや子孫がいないことで、一気に自分に降りかかっていた恩徳までも失うこともある。
すべては因果応報だからだ!
多様性に応じた未來を想定するのが占いであるが、多様性はご都合の良い未來を築く訳ではないのだ。
特に現代社会は、すべてが仕組まれた社会であり、原理原則を持って対抗するしかない世の中なのだ。
なぜならプロレスリングを世界のグローバリストが作り、そこに相反する思想を持つ対立した勢力に戦わせれば、必ず「愛国心や民主側」にある者が人々の支持を受け勝利するのは当然のことで。
そんな茶番に我々は乗せられ、選択肢のない選挙に参加している。
とにかく良識的に、絵に描いたような理想に近い政治家(パフォーマンス)をやってくれる人に、票を委ね。
そしてそれが縦社会構造の権威主義に乗っかり、多数派の心地よさに主観を失い、少数派や相反する意見があることに理解を示せなくなっていることに気付かない。
古い考えや意見は通用しない世の中になり、一般の人たちは敵を作ってまでもワクチン反対する人たちの信条を知ろうともしない。
多数派であるか?
世間的に勝ち組であるか?
ジャッジはそこで、其々の幸せなんて想像が出来ない。
無知で体制に従うことが美徳のようになっているからだ!
何故か?
『自分がないから』
こんな病理的な社会は他にない、世界に無関心で健康を害することに平気で乗っかる、家族の意見は聞かないで組織や社会の言いなりになる。
自分の価値すら見失い、魂の悲鳴すら感じない!
気付いて下さい、我々はもう普通の幸せすら手が届かなくなってきていることを。