不特定多数の人が出入りする駅という場所は、要人の暗殺を目論む輩にとっては、その雑踏が時として好都合となります。
現代の国家要人はSPに厳重に警護されていますが、戦前は今と比べれば警備は手薄だったのでしょう、原敬と浜口雄幸の二人の首相が不運にも東京駅で暗殺者に襲撃され、命を落としています。
その二つの "現場" を訪ねてみました。
まず、東京駅開業から7年を経た大正10年(1921年)、丸の内南口改札の外で原敬首相が何者かに襲撃されます。
"現場” 近くの解説板(上の画像)には、このように記されています。
「原首相遭難現場
大正10年11月4日 午後7時20分、内閣総理大臣原敬は、京都で開かれる政友会京都支部大会におもむくため、丸の内南口の改札口に向かっていた。そのとき、一人の青年が飛び出してきて案内にあたっていた高橋善一駅長(初代)の肩をかすめ、いきなり刃わたり5寸の短刀で原首相の右胸部を刺した。原首相はその場に倒れ、駅長室で手当てを受けたが、すでに絶命していた。犯人は原首相の率いる政友会内閣の強引な施策に不満を抱いて凶行におよんだと供述し、背後関係は不明であった。」
こちらはその "現場" です。
内装は当時とは大きく異なりますが、場所はまさにここだそうです。
丸の内南口の改札を外から見て左の壁に解説板があり、その前が襲撃現場になります。
床には直径4cmほどの目印がはめ込まれていました。
原首相は即死だったそうですから、なんとも痛ましい事件ですね。
この場所を探すのに少々難儀しましたので、ご参考までにgoogle mapでお示ししておきます。
さて、それから9年後の昭和5年(1930年)、今度は浜口雄幸が東京駅で暴漢の銃撃を受け、その9ヶ月後に亡くなります。
「浜口首相遭難現場
昭和5年11月14日 午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向かってプラットホームを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部付属病院で手術を受け、一時は快方に向かったが翌昭和6年8月26日死去した。犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、凶行におよんだものといわれている。」
こちらが現場です。
1階の中央通路にある「インフォメーションセンター」の斜め前です。
しかし、一つ疑問が残ります。
浜口首相が銃撃されたのは解説板にもあるように「プラットホーム」で、1階の中央通路ではありません。
東京駅は開業当初から高架ですから、ホームが一階から二階に移動したということもないのです。
正確な遭難場所はちょうどこの上のプラットホームではないでしょうか?
何かしら理由があって便宜的にこの場所が遭難現場として案内されているのでしょうか?
こちらがその場所です。ご参考になりましたら幸いです。
以上、東京駅で起きた二人の首相の暗殺現場跡を見てきましたが、如何でしたでしょうか?
東京駅には、こんな悲劇的な側面もあったのですね。
(写真)2014.12.8 撮影 2015.6.30 撮影