吹田街道を歩く(泉殿宮ー高浜神社ー浜屋敷) | カヌーイストなラガーマン

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以上を徒然なるままに書いています。

吹田市は 人口約38万人の大阪の衛星都市です。

昭和15年に 吹田町、千里村、岸辺村、豊津村 の4つの町村が合併して成立した市です。

中心地である吹田町を中心とし、発足当時の町役場は旗本だった竹中氏の屋敷が利用されたようです。

ちなみこの有力者である竹中氏は あの竹中半兵衛の末裔になります。

 現在の吹田市は南北に広く延びており、南部を中心に古くから栄えてましたが、

その後 北部の広大な山野であった山田村を昭和30年に編入し

今の市の形となっています。(たぶん)

 この旧山田村跡地を中心に、日本で最初のニュータウン(千里ニュータウン)ができ、

全国的にも有名で日本の経済発展の象徴とも言えるあの万国博覧会が開催されたんですねえ。

この年に生まれた私達は学校の先生方に「万博の子」とよく言われたもんです。

その跡地は かつては万博遊園地、そして現在は吹田市立サッカースタジアム、

エキスポシティ、そして民俗学博物館を有する万博公園と、

各高速道路のジャンクションである吹田ICからもアクセスがよく

郊外にしてはかなり賑わっております。

結婚式を挙げた迎賓館もこの万博公園内にあり、四季折々の風景が楽しめます。

 吹田南部も吹田北部の発達とはまた違った形で開発や整備が進んでいます。

吹田駅近くでは、JR西日本が駅から離れた場所として初めて手がけたグリーンプレイスや、

吹田市民病院の移転と国立循環器病院との併設で

岸辺には巨大な医療コングロマリットが形成される予定です。

吹田市北部には 大阪大学病院、千里済生会病院と大規模な総合病院があるにもかかわらず、

南部には 国立循環器病院と吹田市民病院が完成し、既にある吹田済生会病院と

あわせると大型の総合病院が3つもあり、

市内全域でこれだけの数の大規模総合病院があるのは他に類を見ないでしょう。

(ちなみに 財前教授で有名なあの「白い巨塔」は大阪大学病院が舞台であると言われています。)

大学も 大阪大学、関西大学、大阪学院大学、千里金襴大学、大和大学と5つもあり

更には、図書館の数は分室も合わせると10もあり、

スポーツも盛んで 緑も公園も多いですわ。

 私自身は現在 南部に住んでますが、親が市内で何度か引っ越したせいで

吹田市内は南北共に親しみがありますわ。


 さて、最近歩くことが億劫でなくなったので 

この日は家族でそんな吹田南部の神社仏閣巡りを。


先ずは阪急吹田駅と豊津駅間の踏切の側。

ここかなり昔は おもちゃ屋さんだったんだよなあ。

人生ゲームのおもちゃのお札を持って「おもちゃくださーい」と入ったのを

覚えてるわ〜
 


低学年の時の通学路だったなあ。

この「美里屋」さん  たまたま入ったけど いちご饅頭美味かったなあ。
 


阪急吹田駅から地下道へ

ここも何十年も変わらないね〜

この地下道を北上すると、
 



泉殿宮に到着

小さい頃に夏祭りにいった記憶がうっすらあるくらい。

この泉殿宮、869年に干ばつや疫病で人々が苦しんでいた際に、

姫路の神社から京都の八坂神社へと向かう「建速須佐之男大神」(たけはや すさのお の おおかみ)

の御神輿が立ち寄ったそうな。

地元の氏子が接待するために、祝詞を奏上したり頭を激しく振ったり干ばつのなげきを告げたりの

雨乞いをすると…

敷地内の土の中から水が湧き出たらしい。

田んぼや畑に水が溢れんばかりなったらしい。

それ以来 建速須佐之男大神を崇めまくったのはいうまでもなく、

その時の雨乞いの様と雨を喜ぶ子供の姿が、吹田市地域無形民俗文化財の

「泉殿宮神楽獅子(いづどのぐうかぐらじし)」の所作となっているらしい。

確かにこの泉殿宮あたりから南方向は 水田にまつわる地名が多いことがわかります。

泉、垂水、金田、穂波 といった 水の流れと稲作がリンクしてる地名だもんなあ。

さらに、明治の中頃 この泉殿宮からの湧き水をドイツのミュンヘンに送ったところ、

ビール作りに適しているとの保証を得たということもあり、

それが引き金となって東洋で初のビール醸造工場ができたとさ。

これが今のアサヒビール吹田工場の始まりですわ。

スーパードライで大ヒットする前のこの辺りはビール酵母の匂いがプンプンしてたなあ。

今は上水道が普及し、以前あった広々とした水田が殆ど姿を消しさっていくのと歩調を合わせるように

泉は地中奥深くに水脈を移し、今は湧水していないとのこと。

この一帯は田んぼだらけで、小学はタコあげする場所に困らなかったもんなあ。

ホント、大事なことは後世に伝えていきたいですねえ。

(参照:泉殿宮HP
 


泉殿宮近くの浄光寺  浄土真宗本願寺派ですわ。
 


JRの高架下をくぐり、さらに吹田街道を南東へ。

ちなみにこの高架下は昔の国鉄吹田駅の改札口だったらしい。

現在の場所に駅が移動する前にはこの界隈に駅があったらしい。

ってことは昔は阪急と国鉄の乗り換えは楽チンだったんだねー。

今は阪急とJRは500m以上離れてるからなあ。

で、その高架下をくぐり抜けたところに 天照皇大神宮
 


これまた浄土真宗本願寺派の光徳寺
 


その前で 饅頭休憩〜
 


旧西尾住宅界隈の古き町並みの中を遊びながら歩きます(笑)。
 


これまた浄土真宗本願寺派 光明寺
 


教えたことをやってくれたのは嬉しいけど、神社ちゃうで〜(笑)。
 


この日最後のお寺 徳善寺

さすがは日本仏教最大宗派、浄土真宗本願寺派
 


高浜神社に到着〜。

この高浜神社、「869年 素戔嗚大神を祀って疫病の流行を止めてもらった」とあるみたい。

泉殿神社の「建速須佐之男大神」と漢字は違うけど、

同じスサノオの尊の神輿が姫路から京都の八坂へ向かう途中に立ち寄ってくれて、何かと

吹田村を救ってくれたようですね。

感謝!

平安時代に太政大臣の藤原
實氏公の別荘である「吹田殿」があったり、

そこに後嵯峨上皇が遊びに来たり、足利氏や竹中氏はじめ所縁のある神社のようですわ。


この高浜神社をほぼ起点として吹田の南部を東西に通る吹田街道は、

西にいくと服部の辺りで「能勢街道」につながっており、

年貢米や農産物の運搬や社寺参詣などに利用されたそうですわ。

南町の道標が本来の起点ですが、この道標から北上する道が「亀岡街道」となります。

この二つの街道をめぐってみるものいいかも。
 



次女ちゃん 吹田市制発足の石標前で。

元々は吹田村領主の竹中氏の屋敷があったことから「陣屋」と呼ばれおり、

吹田村役場、町役場 そして昭和15年に発足された吹田市役所があった場所です。

市役所の移転に伴って、昭和20年には市内の有志の方々によってこの地が買収され、

済生会へと寄付されたことが、吹田済生会のはじまりであり、

当時市内に病院がなかったことを思うと、吹田市の医療体制がここから整備されたとも言えますね。

今現在の充実した医療体制を思うと、先人の方々のご苦労がホントにありがたいです。

吹田済生会病院は30年近く前に現在の場所(川園町)に移転されてますが、

吹田市民病院とともに現在もなお吹田市南部の医療を支えてるんですねえ。

現在の中央図書館の下に市民病院があって、そこで産声をあげたのが私の人生の始まり。

長女は別の市民病院ですが、長男、次女ともに市民病院で産まれております。

う〜ん 感謝!
 


で、本日の目的地 浜屋敷に到着。

ちょくちょく吹田市報に登場する 吹田の歴史文化まちづくりセンターです。

訪れたいと思いつつもなかなか実現しませんでした。

勝手もわからず突然訪問したにもかかわらず、ご担当のFさんに館内を案内していただきました。

(詳細はHPを)

土間や現代風にアレンジした蔵、未公開で準備中の農機具などを見せていただき、

ホント勉強になりました。

旧吹田村は神崎川が運び込んできた土砂と、そしてかつては大阪湾がすぐそばだったことから

海の土砂の二つから成っているとのこと。 

豊津や高浜といった地名はその頃の名残であるらしい。

神崎川ではかつて鵜飼もしていたらしく、

大阪市内から吹田市内に入る渡し船がひっきりなしだったらしい。

高浜町の神崎川沿いには吹田渡しの跡地があるようです。

その渡しから吹田市内に入り、亀岡街道を北上して京都に向かっていたとのこと。

海運業が盛んになったことで周辺は栄えたらしい。

しかし戦後は染物業や製紙業が盛んになり、神崎川の水質が悪化の一途をたどったようですわ。

今では水質が改善されているらしいが 鵜飼まではいかないっすね。
 



 さて引き続き Fさんに 吹田の地車(だんじり)についてご教授いただきました。

だんじりと言えば、岸和田のだんじり祭りが全国的に有名ですが 吹田のだんじりも負けていません。

 吹田の地車は、江戸時代から高浜神社と泉殿宮の祭りに各町ごとに氏子が曳行していたようです。

今現在も残る地車は江戸時代に建造され、それぞれ大工や彫物師の名前が刻まれており、

当時の姿や部材がかなり残っているのはすごいことで、

しかも現在も吹田祭りで活躍している現役として

7台も残っていることは、大阪府内でも大変めずらしいことらしいです。

(※参照:だんじり庫前の説明書き、浜屋敷HP)

 ちなみに その7台とは 金田町、川面町、神境町、都呂須町、西奥町、浜の堂、六地蔵の

地車で、全て吹田市有形民俗文化財となってます。
 


 浜屋敷のだんじり庫では6台のうち1台を定期的に入れ替えて展示されているようです。

(※金田町のだんじりは高さがあってJRのガードを越えらないので、

吹田まつりに参加もできず、浜屋敷でも展示できないようです)

現在は神境町のだんじりが保管・展示されています。
 


 浜屋敷の南入り口前の 南町自治会館には こんな掲示板があります。

ざっと要約すると、

 吹田には最大で15基余りのだんじりがあったそうで、

南町にもかつては存在しており、初代地車が曳行不能となった後は解体され

自治会館の玄関のひさしとして利用されたらしく、さらにその後はこの掲示板の屋根として

再利用されたようです。

二代目地車も購入されたが維持管理が困難となって 現在では奄美大島の

奄美アイランド・原野農芸博物館」に「元吹田市南町の地車」として展示されているらしい。

次回奄美大島行った時にはチェックしないといけませんね。
 



 その他吹田の地車に関しては 浜屋敷のHPへ →  ここクリック


以上、大変勉強になったプチ吹田街道散策でした。


 ただこの日はとても寒く、子供達はそんな歴史にはチョー無関心(笑)。

最後は、長女ちゃん、長男くん お待ちかねの とり信へ。

ってかHPがあるとは思わなかった(笑)。

昔から行列のできる唐揚げ屋さんで、これまた有名すぎるほど有名。

この日も30分近く寒い中を並びましたわ〜。
 


骨なし300g、 骨つき300g

いやー冷えた体にはたまらん。
 



その後は 図書館寄って スーパーで買い物して帰りましたとさ。

徒歩計約7キロ 次女ちゃん よく歩いたね〜。

次回は、旧西尾邸、吹田渡し跡、そして吹田街道を豊津から西方向に散策したいですね〜。