早瀬の執務室185 幕末編イラスト「沖田稽古中」&武士の情けと隠しとどめ
「背の高い肩の張りあがった色の青黒い人であった」
「よく冗談をいっていて殆ど真面目になっている事はなかった」
「近所の子守や、私達のような子供を相手に、往来で鬼ごっこをやったり、壬生寺の境内を駆け廻ったりして遊びました」
『八木為三郎老人壬生ばなし』にある沖田総司に関する記述です。どうも沖田というと線の細い美剣士というイメージが強固にあります。近藤勇はひそかに沖田を五代天然理心流宗家にと考えていたそうです。沖田が天然理心流を継いでいたら、現在ある天然理心流もかなり変わっていたことでしょう。
篠塚は沖田より五才ほど年上の設定になっていますが、沖田と篠塚では、やはり沖田のほうがドンと地に足がついている気がします。もちろん篠塚は創作上の人物ですから比較しようがないのですが、沖田には死を背負っている男の存在感みたいなものが早瀬の中にはあります。
それは土方歳三や永倉新八にしても同様で、新撰組の局中法度はたしかに厳しいものですが、あれは武士の世界にしっかりと根をおろしている風習でもあります。一度剣を抜いたら斬り殺すか、斬り殺されるまで剣をおさめない。稽古などでおこなう「仕合(しあい)」と「果し合い」の違いだといえるでしょう。そしてこれが武士と武芸者を大きくわける点でもあるように思います。
「仕合」は勝つことが目的、「果し合い」は相手を殺すことが目的です。なので武士の斬りあいが行われると相手がすでに死んでいるとしても「とどめ」をさします。敵に斬られた無様な姿を晒(さら)すことは屈辱以外のなにものでもない。「とどめ」をさすことそのものが「武士の情け」であったんですね。
中には完全に死んでいるのを見届け、懐紙(かいし)で刀身の血を拭い、その懐紙を相手のたもとに入れ「隠しとどめ」とすることもあったといいます。これは果し合いを終えても冷静であったのだと示す行為となるそうで、戦国時代が遠くなるにつれ一生、真剣で斬りあうことがなかった武士もいるわけですから、人を斬った後、冷静でいられるということそのものが賛美のひとつになる。相手を倒し「さすがは」といわれ後世に名を残すことこそ武士の本懐であったのでしょう。
新撰組は武士として生きようとした。少なくとも土方は、そうであったと思いたい早瀬です。土方はきっと武士としての地位ではなく名を残したかったのではないかと。命がけで夢を追いかけた不器用な男たち、そんな感もあるのですが、そこが身震いするほどカッコイイ。新撰組は百年後もきっと、多くの信奉者をもち熱く語られていることでしょう。
【追記】 上記「隠しとどめ」に関する記事は、じつは入門している剣術道場でのききかじりで出典がありません。「隠しとどめ」というのは藤沢周平の著書などにわずかに見られる言葉です。氏は実際に取材などをして確かな事実にもとずき著書に残したものと推測します。もし、詳しく書かれている書籍、資料の類をご存知の方がいらっしゃいましたら、是非、お教えくださいませ。
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