黄昏はいつも優しくて3 ~第123話~
「瞬、このことは北沢にも黙っていろよ」
「はい」
しばらくしてシリンダーの中の水が沸騰しサイフォンが独特の音をたてだした。たちのぼる白い湯気のむこうに篠塚の穏やかな横顔が見え隠れする。
部屋に漂っていたカサブランカの残り香が珈琲の香りにとってかわる。緊張がほぐれ長い溜息がもれでた。
時刻はすでに一時になろうとしていた。
美味そうに珈琲をのむ篠塚の横で、くつろぎながら夜の静けさに身をゆだねる。
「どうした」
気がつくと、篠塚が瞬の顔をのぞきこんでいた。
「疲れたのか」
「いえ……」
篠塚が立ちあがり手をひいてくる。さそわれるまま寝室へとむかった。
ベッドに沈むようにして篠塚の身体を抱きとめる。眠気をともなうまどろみの中でもたらされる抱擁。身も心も蕩けてしまいそうだ。
先刻から感じている、この浮遊感はなんだろう。身体がかるい。いや、かるくなったのは心なのかも知れない。ストーカーの一件で篠塚と貴子の距離がちかくなり心がどうしようもなく荒(すさ)んでいた。怒りと不安と嫉妬と焦燥。さまざまな黒い感情がとぐろをまき胸中にいすわっていた。だがその感情の波がひきはじめようとしている。
怒りという感情はすべての感情に勝るものなのだろうか。心の半分を閉ざしていた怒りという名の重い扉がひらかれ奥にひしめいていた感情が堰(せき)を切ったように流れでてくる。まるで夜の帳(とばり)のむこうにひそむ朝の陽の光だ。閃光のごとく広がっていくそれは、甘い疼(うず)きをともない瞬(またた)く間に心の襞(ひだ)という襞をうるおしてしまった。
切ない……。
出逢った頃から変わらない想いがそこに存った。自由をえて舞いあがりそうになる心を篠塚のしなやかな身体がベッドにつなぎとめてくる。ふくれだした感情は心にとどめておくには大きすぎて、いき場を失くした想いが涙となり頬を濡らした。
「どうして泣くんだ」
瞬はちいさくかぶりをふると篠塚の肌のぬくもりを必死になってたぐりよせた。
もっと……。
篠塚のひろい背中に手をまわし自分の身体へとおしつける。腕がだるくなってきた。だが、いっこうに心は満たされない。切なさが消えない。そのうち、嗚咽(おえつ)がもれだした。
「瞬……」
どうして自分はこんなにも弱いのだろう。虚勢をはり篠塚に感情をぶつけたところで、それも一時のことだ。激しい感情が去り本来の心をとりもどせば、篠塚を失う不安にふるえる幼児のような自分の姿がみえてくる。
篠塚が持て余したように瞬の名を呼び頬をすりよせてくる。篠塚の戸惑いが伝わってきた。
「雪乃さんのことなら心配するな。俺はどこにもいかない。ずっとおまえの傍にいる。瞬……」
篠塚の髪に両手の指をからませ接吻をねだる。沈黙にとけていく衣擦れの音。おりてくる篠塚の唇のやわらかさ。
これまでもそうだった。どれほど強く肌をあわせ身体を重ねても、この切なさはとまらない。抱えきれない愛しさと恋しさと。のぼりつめた感情が徐々に去っていくのを、ただじっと待つしかない。
夜が更けていく。篠塚のたしかなぬくもりに抱かれ、いつしか瞬は眠りについていた。
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