チェンジ | 鶴と亀そして松のつぶやき

鶴と亀そして松のつぶやき

陶芸とさびれた日々の思い。

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私の知り合いのお母上が内側にある自分自身の大丈夫を感じる事で娘との確執を打解する事が出来たと言う話を本人の言葉として聞く事が出来たのだが、私にとっては何よりも嬉しく、そうでしょう、と誇らしい気にもなる。

私はその方が語っている事を聞けば、その方が理屈、頭で理解して説得されたものか、その人が体感したもので在るか位は解るつもりである。

体感したのである。その方は社会性の中で問題を問題としてきちっと対面して来たのだろう。

そして一寸、託したのであろう。でも、何事も継続しなければお稽古事は上手には成らないと言う事も、仕事も続けなければその意味は解らないと言う事も経験の中で識っていたのだろう。

継続の努力の仕方を知っていた。
そして、その単純さを同じ様に受け入れた。そして、信じて同じ様に努力した。

色々語るのだけど結局は何よりも純粋な幸せに成りたいと言う切望だけが必要。

その信頼の中でのシフトチェンジ、逆転である。自分の内側を体感すると言う事は、ただ理解である。

もう、動かし様の無いもの、只、リアリティーである。何か外側の変化が起った訳ではないのであり只、その人が根拠のない理解の中で変った。

とてもシンプルなもの。皆は信用は出来ないかも知れない。

でも、その方はそのシンプルに託したのだ。

只、感じるに身を任した。何も考えず受け入れた。そのシンプルさに。只、其れだけの事。

私は言いたい。世の中では何の説得力をもたない位、其れくらい単純な事。

その事に一寸の時間、他は今までの生活で良いから。身を任して欲しい。ちょっとだけ、時間を作って。

騙されたと思って、只、感じるに意識を止めて観て欲しい。

何故なら其れが今。

其れがどうしたと言うかも知れないけど、でも、自分を見詰める方法は其れだけ。

嘘だと思うとおもうけど、その方は感じただけである。

論理を学んだ訳でもなく、理屈を信じた訳ではない。只、感じるに身を任せただけだと想う。

其れが大昔から語られた今に帰る方法。

単純すぎて気にくわない人も居るだろうけど、
この事はそう言う事だ。