先週の金曜日にLaufeyの新しいアルバム、Bewitchedが出た。

とは言え、前々からシングルとYouTubeで公開されている曲も結構入っているから、実際はじめて聴く曲はあまりなかった。

それより、アルバム公開と同時に、アルバム全曲の楽譜がダウンロードできるようになった。こんなことをするアーティストは聞いたことがないけど、嬉しいものだ。

今練習しているのは「Promise」という曲で、失恋したばかりの、強がりたいけど強がりきれない感情を描いている曲。同じコードをほぼ繰り返しているだけなのだが、楽譜は8枚もあって、苦戦している。

同じところを繰り返し練習しなければいけないから、下手なのに徐々につまんなくなっていく、けれど練習しないといつまで経ってもできるわけがない。


練習と同時進行で初心者向け音楽理論のハンドブックを読んでいる。言っていることをふむふむ、なるほど、と思いながら読んでいても、これが実践的に使える情報になるのはまだ遠い未来になりそうだ。


先週の金曜日からうちに猫がやってきた。元ルームメイトの黒猫で、旅行に行くから1週間ほど預かることになった。犬のような猫で人懐っこい。一緒に住んでいたときはしばらくかまってあげていたのだが、徐々にウザくなっていき、そして、リビングにトイレがあったせいでリビングがほぼ使えなくなったり、いろいろトラウマを抱えていた。が、1週間くらいならあずかっても大したことない。吐かないでいてくれるといいのだが。







(写真: パンダン雪皮月餅)

ベイエリアでは辛うじて四季はあるものの、雪は降らないし、紅葉もほとんどないし、春夏秋冬らしい四季ではない。気候区分的に言うと、地中海気候で、その中でもCsb, “warm-summer Mediterranean climate”というやつだ。基本的に乾燥していて、夏はそれなりに暑いけど、それ以外だと年がら年中春のような感覚。そして、夏でも朝夕の寒暖差は激しい。今年は記録的降雨量で、春に丘や山が普段の黄色から緑になって、「スーパーブルーム」と騒がれて、ポピーやらルピナスやら色んな花ががスーパーにブルームしていた。今年が例外で、こんなことは滅多にないらしい。9-10月になると乾燥が一番ひどく、山火事がしょっちゅう発生する、地元民が「ファイアーシーズン」がやってくる。


そんな四季が感じにくいカリフォルニアでも、うちでは、1月の冬至に湯圓を食べ、2月の旧正月にご馳走を用意してニューイヤーパーティをやり、6月に端午節のちまきをたべ、人に配り、9月の今、中秋節の月餅を食べていて、今年はこれらの行事を全てクリアしている。冬至の湯圓(これは冷凍のものを買ってきて茹でた)以外、全て手作りしている。それ以外にも、独立記念日にBBQをしたり、夏っぽいこともしている。常夏のマレーシアでも、各行事にあわせた食べ物を必ず食べることを思い出しながら、色々作って、色々食べてもらって、年にメリハリをつけている。

カリフォルニアでは野菜・果物・ナッツを生産しているから、旬の野菜・果物が出回る。夏はベリーやイチゴがでて、その時期も少しずつずれている。イチゴやさくらんぼはどちらかというと春の終わり頃の56月、ブルーベリーは7月が本番、ラズベリーも出たりする。8月は夏の定番のモモがいっぱい出るが、それ以外にも、プラム、pluots (プラムとアプリコットのかけあわせ)、ネクタリンが出る。モモも、黄桃か白桃かでそれぞれ人の好みがあったり、品種も豊富。ニンニクは夏に生えるもので、本当にフレッシュなものは、外の皮が柔らかくて、皮なのか中身なのか区別がつかない。そんなことは引っ越してくるまで全然知らなかった。日本でいちご大福が冬にしか出ないのは、クリスマスケーキ用にハウスで育てられたイチゴがいっぱいあって、大福はついでに作られているのだろうか。


土曜日に作った月餅は、パンダン味の雪皮月餅。雪皮はもち粉でつくる、ほぼ大福と変わらないもの。中身がパンダンというのは、マレーシアでは定番だが、きっと、発祥地の香港では珍しいのだろう。日本では月餅はあっても雪皮月餅はあまりなく、食べたくなってもどうしようもなかったけど、大人になって、市販に頼らずとも自分でなんとかなることに気づいた。

これもYouTube先生に教わった。










毎晩、夜中の2ー3時ごろに目が覚める。

いつも同じ時間帯に目が覚めるということは、もう、トイレに行きたいとか、不眠症とか、そういうのではなくて、体内時計が2ー3時に一回起きる、ことになってしまっているんだと思う。

きっと、目をつぶっていればまた寝落ちするんだろうけれど、せっかく起きているのにそれはもったいない。

ベッドの中で、掲示板巡回したり、インスタをチェックしたり、それはそれで忙しい。

そして、誰も起きていないときに忙しくしていることに意味がある。誰よりも得している気分になる。

あっという間に1ー2時間経ってしまう。

あ、寝ないと流石に起きれなくなる、と思ったりする頃にはもう、早朝4時。

ここでまた寝て、通常の起床時間を守ったら逆にすごく眠くなることはわかっている。

ならば、いっそ、起きた方がいい気さえする。

散歩でもしようかと、ふと考える。

なんか、お腹も空いてきた。

でもベッドはどうしようもなく居心地がいい。

やっぱりこれだけ起きてるんだから、生産性のあることを一つくらいした方がいいだろう、とおもって、来たる今日の予定や献立を考えたりする。お昼休みにお肉を解凍しなきゃ、とか、あー外の落ち葉を掃除しなきゃ、とか。

そうすると、起きていることがあまり楽しくなくなる。

それにつられて眠くなる。

二度寝だから明晰夢見れるかな、と期待しながら、やっと目を閉じると決意する。


これを繰り返しているうちに、自分の中で仮説ができた。

学生の頃、本当は6時半か7時に家でても間に合うのに、いつも5時か5時半に起きて、空いている電車に乗って、誰もいない学校に行くのが好きで、大学の時までずっと続けていた(流石に5時には起きなくなったけど)。それを、きっと、体がいまだに覚えていて、それで夜中に起きてしまうのだと思う。

その時間が一番居心地よくて、得している気がして、なんでもできそうな気がして。


健康なんだか、不健康なんだか。







825日公開の映画のはずなのに、今週に入って急に上映回数が少なくなって、これは土日まで間に合わないかもしれない、と思い、水曜日18時の回に駆け込んだ。


フリーモントは、混んでいなければ20分弱で付くが、退勤ラッシュでギリギリ間に合ったような間に合ってないような、、、タイトルシーンを逃した。

まあ、しょうがない。


モノクロ映画で、台詞も少ない、登場人物も少ない、音響も少ない、ミニマルな映画だったが、それで侘しい感じ、アンニュイな感じを出していた。Fremontは、アフガニスタンで米軍の通訳をしていた女性がアフガニスタンに居られなくなってカリフォルニアのフリーモントに移民し、毎日サンフランシスコまで通ってフォーチュンクッキー工場で働いている。

台詞が少ないから、どんな人物なのか、どんな性格なのか、わかりにくいということはなかった。通っている精神科医の先生が、こんな質問をする。


「フリーモントに住んでいるアフガン人はみんな、フリーモントで働いている。どうして君は毎日サンフランシスコまで通ってるの?」


「朝起きて初めて会う人はアフガン人、夜寝る前に最後に会う人もアフガン人。だから、日中は他の人にあった方がいいと思うの。中国人とか。」


と答えていた。

彼女の意思や決意が小さなところで、ちょっと屈折して、行動に現れる。映画の中でそういう出来事が散りばめられていて、彼女のことをもっと知りたくなるし、応援したい気持ちにもなる。映画の後半で、いかにも寂しそうな、彼女と似通ったものを感じさせる車の修理工に出会う。二人のやりとりは、熱すぎるものに触れる時のような、緊張を感じさせる。「駆け引き」というより、もっとピュアで、素直だけど素直じゃない、イノセントなものを感じさせる。

観ていて不思議と元気になる映画だった。


忘れないように、最初英語で感想を書いたからそれも載せておく。





Fremont is about Donya, a young woman who emigrated to Fremont from Afghanistan after working for the US army. 

She reminded me of myself, which is strange because that hardly ever happens when I watch anything. 

The dialogue is minimal, but effective. It was almost strange to watch because the dialogue is at the forefront of everything. There is background noise sometimes, but never music while the characters are talking, and I liked that. It made me feel like the person who made the movie trusted me to take the words as I wanted to, without being influenced by whatever is playing underneath it. It’s like being in a bubble and every word matters so much more than usual. 


Her psychiatrist asks her “most people who live in Fremont, work in Fremont. But you go to San Francisco for work, why?” 

And she says something along the lines of, “the first people I see when I wake up are Afghans, the last people I see before I go to bed are afghans. I think it’s good to see other people during the day, like Chinese people”. I liked that. And I do agree, even though I’ve yet to do anything about it.


She reminds me of myself in the way she interacts with the world, and people. And in particular, the way she interacts with people she likes, or to the extent of the movie, are curious about. She meets a mechanic because she needed an oil change. She “sort of” has lunch with him (at separate tables), but goes back twice to the garage to see him. The first time she goes back, she goes into the office, even though she didn’t need anything. The second time she goes back, she walks around the whole place basically until she finds him at the very back of the shop. Each time, it seems that she gets bolder, and more sure of herself. She even gives him a strange present at the end, and didn’t seem to think much of the implications at all. And so, she reminded me of myself. In a good way. 


The movie was well received by film critics, from what I’ve seen. The Los Angeles Times said, “the film is a cross-cultural comedy that explores the freedom of being lost and the exhilaration of finding oneself.” And The New Yorker said, “It’s more of a study in solitude. (…) Donya stands beneath a tree, in a luminous haze of sunlight, beside the busted shell of a car with no wheels and an abandoned armchair. In America, her newfound land, even the things are alone. “

I’m not entirely sure about “the exhilaration of finding oneself”. That sounds more like some “Eat Pray Love” type trope. I’ll admit she is probably “finding herself”. She’s all alone in a foreign country after all, but not in the common sense of the phrase. I think she knows who she is and who she wants to be.

She is determined, and has a whole lot of courage to do things. And a whole lot of faith too. She understands that she feels lonely, rejected even by some in her own community, but she is not fatalistic, nor does she pity herself. At the same time though, she is also not overly optimistic, she really isn’t “too much” of anything. Maybe some people would think she is naive, because she drove all the way to Bakersfield, thinking someone responded to her. Naïveté is, I think, when people act in a way where they are completely unaware of the negative consequences, or do not think of the consequences at all. She does, she almost doesn’t go, and when she does, she practiced meticulously the night before. She is a reserved realist with a lot of faith. And I liked that a lot about her. 




(写真:Onam Sadya。本当はもっと色々出てきたけど食べるのに夢中で写真はこれしかない)


連休2日目は予約していた南インド料理屋さんのバナナリーフライスを食べに行った。

「バナナリーフライス」は多分、マレーシア・シンガポールでしか通じない言葉で、バナナリーフはほぼ料理には関係なく、あくまでも料理を乗せる器だ。マレーシアに住んでいた時に食べた記憶はなく、高校生くらいになって初めて食べて、それ以来帰ると必ず食べないといけない好物だ。


インド料理は大きく分けて北インド料理と南インド料理があって、自分の理解としては、北インドはナーンがあって、南インドはパラタとか、バナナリーフライスとかがあるイメージ。自分の印象としては南インド料理の方がライトで健康に良さげな気がする。

Tirupathi Bhimasはベジタリアンのお店で、2週に1回ほど通っているが、私たち以外の東アジア系は一人くらいしか見たことない。やはり、インド料理+肉が出ないとなると、美味しくてもハードルが高いのだろう。

いつも行く時、頼むのはターリ一択。デザートも付いて10種類くらいのカレーやらスープやらがご飯と一緒についてくる。この種類の多さにいつも魅了されて他のものが頼めない。そして、肉がついていないからお腹にも優しい。

2週間前くらいに行った時、スペシャルメニューの張り紙が貼られていて、聞いてみたら、Onamという、収穫祭的なお祝いごとがあるらしく、それで食べるごちそうがSadya 、これがスペシャルメニューとして、3日だけ出ると聞いた。これは見た目的にどう見てもバナナリーフライス。ということで、早速予約を入れたが、結構人気があり、スペシャルメニューがある日は11時から2時まで4回に分かれていたが、1時の回は満席で、その他の回も結構埋まっていた。


予想はしていたけど、当日入ったら6080人くらいいるお客さんの中で、白人女性が一人、おそらく中国系か東アジア系の女性が一人で、どちらもインド人のパートナーと一緒に来ていた。うちら二人は「じろじろ見られていた」とまでは言えないにしても、いやでも目立っていたからちょっと恥ずかしかった。

普段円卓がメインのレストランだが、この日はお客さんをもっと入れるために長い長方形のテーブルがずらっと並んでいて、他のお客さんの隣に案内された。

私の隣に座っていたのは、とてもフレンドリーな4050代のおじさん。向こうから「Happy Onam!」と言ってくれて、とても嬉しかった。

その後もちょくちょく「これは生姜とマンゴーで作った漬物だよ」と教えてくれたりした。

6080人がいる中で、各々カレーやら漬物やら16種くらいサーブするのも大変だと思うけど、なかなか手際が良くて、感心した。

徐々に食べ終わった人増え、席も空いてきたところで、2席くらい離れた女性に声をかけられた。おいしかった?と聞かれたり、なかなかベイエリアでもこれほど本場に近い味が味わえるところはなかなかないのよ、だからうちの娘の結婚式のケータリングもここに頼んだの、と気さくに話してくれた。そして、唐突に、


「あなた、シンガポール人?マレーシア人?」


と、聞かれた。

あー、なるほど。わかる人にはわかるんだ、と思った。


「はい、マレーシア出身です」


と答えたら、とても満足げに、「やっぱりそうよね、そうだと思った。インド料理が好きな中国人は大体マレーシアかシンガポールで食べているからよね」と、めちゃくちゃ当たっていることを言って、自分の親戚にシンガポールにずっと住んでいる人がいて、しょっちゅう遊びに行っていると言っていた。


日本でバレる(別に隠してないけど)ことはなくても、こういうところでバレるのが少し嬉しかった。


食の連休2日目だった。


土曜日は友達とその彼とウチら、4人で人工湖兼貯水池のLake Del Valleに行ってきた。車で1時間ほどかかる、割と行きやすいところだ。道中は枯れ草が生えている丘の間を通り、牛やら馬やらがいるようなところをすり抜けて行き着くような、電波が届かない場所だ。前々から私が運転すると決まっていたので、ほとんどそのためだけにSpotifyプレミアムのお試しに加入して、プレイリストを作った。洋楽が多いけど、邦楽も少し入れていて、宇多田ヒカルが多分10曲くらい入っている。それがかかった時、友達の彼が鼻歌を一緒に歌っていた。サクラドロップスとか、COLORSとか、マイナーめな曲も知っていることに結構びっくりしたけれど、人の車で鼻歌が歌えることにもびっくりした。かわいかった。「初恋」はNetflixのドラマFirst Loveで二人とも知っていたらしく、「面白かった?」と聞いたら、「(彼は)すごく気に入っちゃって、ドラマ見て泣くような人だったら絶対号泣していた」と友達にイジられていた。

それもかわいかった。


春は枯れ草ではなく、昔のWindowsのバックグラウンドのような青々とした丘になるらしい。でも今は枯れ草。

それはそれで、黄色と、なぜかどす黒い木々が映えていてきれいだったけれど、基本夏は枯れ草しかないからちょっと悲しい気持ちにもなる。

ここはベイエリア内で(温度的に)泳げると思える場所だったので、本当は泳ぎたかったのだが、最高気温が24度でずっと曇り空だったため、断念することに。


貯水池なのだが、泳げるし、釣り、ボート、カヤック、SUPなど、あらゆるマリンスポーツができるところで、賑わっていた。

家族連れが多く、ひとグループ1015人くらいいて、ありえない用意周到でみんなきていた。テント、毛布、バーベキュー、キーボード、大音量スピーカー諸々持ってきているグループが一つや二つではなかった。誰かの誕生日だったのかな、マリアッチまでいた。


ウチらも4人だったので、それなりに準備していた。久しぶりに日本食が食べたかったので、お弁当をつくることにした。前日も準備をして、当日の朝も準備して、クーラーに詰めて持って行った。


献立はこんな感じ。


おにぎり(ふりかけ混ぜただけの2)

たまごサンド

ナスの味噌煮

きゅうりと塩昆布

サラダ

豆腐ハンバーグ





我ながら頑張った方だと思う。豆腐ハンバーグは結構好きなのだが、初めて作ったので形はあまり綺麗ではなかったが味は美味しかった。

ナスが結構しょっぱかったのでおにぎりのふりかけを控えめにふりかけたら全然ふりかけの味がなかった。おにぎりもあまり作ったことがないから要領がよくわからなかった、事実。

本当は大好きなツナマヨにしようかとも思ったが、友達は海鮮全般が嫌いで、夫も「ツナ缶嫌い、、、」とか訳の分からないことを言っていたので断念してしまった。

やっぱり人に料理を食べてもらうのは緊張するけど、まあまあ減っていったからよかった。

買ってきただけのやつだったけどもちろんデザートもあった。


予定通り、二人用のカヤックを1時間ほどレンタルしていたが、自分、なんせ運動音痴だから、漕いでも真っ直ぐ行けず、ジグザグするか、グルグル回るかで、ほとんど夫が漕いでいた。

しょうがない、手伝った方が迷惑なんだから。

この場を借りて、ごめんなさい。


その後、岸の方に戻って、マットを敷いて男子2人は囲碁をやって、女子は暇だからおしゃべりしていた。最近みたオッペンハイマーの話や、本、ドラマの話で盛り上がった。電波が届かない場所で携帯が弄れないからかえって充実した時間が過ごせたと思う。


楽しい、楽しい連休の1日目だった。



 

昨日はゲームをしていたので書くのをサボってしまった。ゲームをすると読む時間もなくなり、そうすると一気に書くのも難しくなることに気づいた。

月曜日はThe New Yorkerの発行日。図書館経由で、Libbyというアプリでバックナンバーも最新号も電子書籍として、無料で手に入る。暇なときは、毎号必ず入っている短編小説を読んだりする。政治、フィクション、アートなど、幅広く取り扱う雑誌で、「シャーロットのおくりもの」のE.B. ホワイトや「ロリータ」のウラジミール・ナボコフも記事を書いている、一流中の一流雑誌。日本に住んでいた時ちょっとだけ購読していたこともある。もちろん、雑誌だから記事によって書いている人は違うけれど、どれも文章がうまい。語彙力がないからうまいの一言しかない。読んでいると、職人がろくろに向かって丹念に粘土を成形して行く姿を見ているような気持ちになる。西海岸には、The New Yorkerに匹敵する雑誌はまだない。出版界が廃れていく一方の今、これからできるというのは考えにくい。

今週発売の9月4日号はAnimalsをテーマに厳選された過去記事から成る一冊で、愉快な気持ちになる。古いものは1934年のDefence of Cats (犬派猫派バトルが展開されているエッセイ)や、ナボコフが書いたButterflies(1948年)という、生涯続けていた蝶の収集の話、フィクションは村上春樹の「象の消滅」が掲載された。本当に充実した一冊となっている。


「ロリータ」しか読んだことない自分はナボコフの「ファン」だと到底名乗れないが、2ー3度読んでいて、はじめて文章の美しさに涙した印象深い作品。Butterfliesもジャンルを違えど期待を裏切らないものになっている。自分の趣味についてこんなにも語れる人は他にいるのだろうか。自分の病的収集癖は自覚しているらしいし、人に理解されようとも思っていないが、それでも、読み終わったら、少しばかり、分かったような気がしなくもない。

わからないけれど。

蝶の収集といえば、日本全国の中学生に衝撃を与えたヘルマン・ヘッセの「少年の日の思い出」が有名。ヘッセも蝶が大好きで、今年Butterfliesという、彼が書いた、蝶にかんする詩、エッセイ、物語が144ページにわたって収録されているアンソロジーが刊行された。(おそらくドイツ語版が先に出たのだろうけれど)

きっと、日本でいう、カブトムシを捕まえて飼うのと同じ感覚で、ヨーロッパで蝶の収集がされているのだろう。今はそんなことをしている子供がたくさんいるとはとても思えないけれど、でもまあ、少なくとも昔は結構いたのだろう。


昆虫でなくとも、収集癖を持っている人は結構いる訳で、自分も(だいぶ治ったが)、缶バッジや綺麗な箱を集めるのが好きだった。私は子供の頃に缶バッジが好きだったので、そのことを家族・親戚に宣伝しておくと、そればっかりお土産にもらっていたから、メリット・デメリット両方があると思っていたが、蝶々だとそうはいかないらしい。面白いことに、ナボコフはこれについてこう書いている。

 

One of the first things I learned was not to depend on others for the growth of my collection. Aunts, however, kept making me ridiculous presents—such as Denton mounts of gaudy but really quite ordinary insects. Our country doctor, with whom I had left the pupae of a rare moth when I went on a journey abroad, wrote me that everything had hatched finely, but in reality a mouse had got at the precious pupae, and upon my return the deceitful old man produced some common tortoise-shell butterflies, which, I presume, he had hurriedly caught in his garden and popped into the breeding cage as plausible substitutes—so he thought. 

(勝手に訳してみた)
私が最初に学んだことのひとつは、コレクションを増やすのに他人をあてにしないことだった。叔母たちは、派手だがごくありふれたデントン製の昆虫標本など、ばかげたプレゼントを何度もくれた。海外に行くことになり、珍しい蛾のサナギを知り合いの町医者に預けていたら、すべて立派に孵化したと手紙をくれたが、実際にはネズミに食われてしまった。
帰国したとき、あのうそつきじじいは、ありふれたタテハチョウを何匹か出してきた。おそらく、急いで庭で捕まえて、もっともらしい代用として檻に入れたのだろう。


これは相当トラウマになりそうだ。そして、好きなものだったらなんでもいい、という大人の安直な考えは本当に、その「好きなもの」が何であるかにかかわらず、よく起こることだ。大人になるとものを集めなくなるから、そういう感覚を忘れてしまうものなのだろうか。

ヘッセの「少年の日の思い出」の中でも、状況はだいぶ違うにせよ、やはり、生きている蝶でも、サナギでも、標本でも、その脆さがキモで、それも魅力のひとつなのだろう。

 

わからないけれど。


 



土曜日に新しいゲームを買った。

Steamの欲しいものリストに入っていたらしく(入れた覚えない)、セールで30%引きくらいになっていたので、買うことに。

ゲームのタイトルはThe Wandering Village、毒キノコに世界が汚染されてしまい、Onbuという伝説の怪獣の背中の上で暮らし始める、まちづくりするゲーム。徐々に作れる建物や食物、住人も増えていき、かつ、Onbuの世話やご機嫌もとらなければいけない。いろいろやることが多いゲームだ。

初めてやった時は、Onbuのご機嫌取りを全く無視していたら、だんだん嫌われてしまい、身震いを頻繁にするようになり、それで建物が破壊される。建物が破壊されると修復するためにリソースを使わなければいけないので、なかなか前に進めない。徐々に蓄えていた材料や食べ物が減っていき、結局58日目で村が全員飢え死にしてしまった。ゲームは村人が全員死ぬか、Onbuが死ぬかでゲームオーバーになる。難しいゲームではないのだが、何か一つでも怠ると大変なことになる。

画風も可愛いし、戦闘系ではないから割とリラックスして(それでも何かと忙しい)遊べるゲーム。

自分がゲームオーバーしたので、夫に交代。

そしたらどハマりしちゃって、ゲームオーバーしなかった彼は6ー7時から深夜1時までやっていた。

日曜もちょっとやって、今朝も起きた瞬間「やっぱさ、、、街作り計画をもっと突き詰めたいよね」とか唐突に言っていた。


ジムの帰りも「まあ斬新なゲームではないけど、画風は可愛いし、Onbuもかわいい」と、半分独り言言っていた。ずっとゲームのことしか考えてない、、ようにも見える状態。

自分が見つけてきたゲームを気に入ってくれたのは嬉しいけど、ちょっと気に入りすぎ?






フォローしてね

 


今日はNational Cinema Day、去年から始まったらしく、大手チェーン映画館のチケットが一枚4ドルになる日。

ということで話題の「オッペンハイマー」を見に行くことに。3時間の長編だから尚更お得だ。


クリストファー・ノーラン監督の作品はあまり好みじゃないけど、「インセプション」「テネット」などのSF系ではないし、「プレステージ」のようなサスペンスでもないから、きっと雰囲気は違うのだろう、と思いながらチケットを購入。それ以外の選択肢は「バービー」しかなかったし。まあ「バービー」でもよかったのだが。


ここからネタバレ注意


映画館から出てきて「まあまあ面白かった」という感想で、少なくとも「インセプション」や「プレステージ」のような嫌悪感を抱かなかったけれど、思い返すと、よかった点が一つも思い浮かばない。主人公の大学時代、キャリア、その後の人生を辿っていくストーリーだが、3時間の中にこれを詰め込む。マンハッタンプロジェクトに関しては、壮大なプロジェクトな訳で、コアなメンバーだけでも多分4-5人いて、この人たちがどんな人達なのか、どんな理念、考えをもってこのプロジェクトに参加しているのか、言及されない。ケンブリッジで物理を学んでいた時が描かれ、そこで、「自分の思考に苛まれている」というようなことを、波形の映像や星の映像やらで表現しているところに関しては、陳腐でチープな印象しかなかった。オランダでオランダ語で講義をするシーン、サンスクリット語の原文を訳するシーンも(特にこれが現実離れしていたけれど)、オッペンハイマーという人物の智力に驚かされるより、そこらへんの韓流ドラマのメインが「英語とフランス語ができるのよ、すごいでしょ」という定番を、ここでも利用することに驚かされる。これがまた陳腐に見えるのは、その後、映画の中でこれが全くでてこないからだ。唐突に観衆に「この人オランダ語を6週間で習得して、さらにサンスクリット語もよめるの!」とアピールした後に、それについてのフォローアップが全くない。言って終わり。

また別にシーンでは、結婚して子供もできるが、奥さんが子育てにうまく適応できなかったため、子供を友人にしばらく育ててもらうことになる。これについても、そのシーン限りで、その後全く何もなかったようにその子供が大きくなって、ロスアラモス研究所でひょっこり出てくる。

研究中は、終戦を本義としている、、、ようにも見えるし、単に、レースに参加させられているから走るしかない、というような具合にも見える。原爆投下後、罪悪感に苛まれるシーンもいくつか出てくるが、すごく印象に残るようなシーンではなかった。一番印象に残っているシーンといえば、、オッペンハイマーの妻が尋問されている時に、尋問している人の質問を一蹴するシーン。ついさっき、その同じ公聴会で、オッペンハイマーは自分の浮気を公の場で告白したにも関わらず。

主人公の戦中戦後のキャリアを辿っていくストーリーはいわゆる「フラッシュバック」する一つのタイムラインで、映画の「現在時刻」では、オッペンハイマーがソ連に機密情報を漏らした疑いがかけられ、尋問されている。この尋問会をそもそも現実にしたのはストローズという人物で、要は、器が小さく、想像力にかけている人間という設定。オッペンハイマーを嫌っているから、復讐の策を練って、その賜物がこの尋問会なのだが、ストローズがこういう人物であることは、自明のように進められていく。理由もなく器が小さく、復讐心は強い人がいる、ということは納得がいくとしても、ストローズにはこの二つしかなく、キャラクターが一面的だった。ちょい役ではなく、公聴会を事実上指揮している人なわけで、いわばナチより、日本より、ソ連より、一番具体性を持つ「悪役」なのだ。なのに、なんだか空虚。


ストーリー、セリフは面白かったけど、思い返して書き出してみると、よかった点が一つも出てこなかったのは、、、まあ、そもそもこの監督の映画が苦手だから驚かない。だが、時間という長い映画だったのに、終わった後に「尺が足りなかったと思う」という感想が出たのは我ながら驚きだ。


日本での公開はまだ未定だそう。






(写真:Paik’s Noodleのジャージャー麺)


初めてジャージャー麺を食べたのは小学校の給食。初めて食べる食べ物はおそらく、大体給食で食べた人が多いのだろう。家で食べるものはそんなにバラエティがあるわけではないわけだし。きなこ揚げパン、サーターアンダギー、ポトフ、雪見大福、牛乳かん、鯨の竜田揚げ(給食で唯一これまずいな、、、と思った) など、覚えているものだけでもかなり多い。「ゆきみだいふく」がなんなのかわからなくてクラスメイトに聞いて「え?知らないの!?!」と驚かれたことや、アイスなのに名前のおかげで、冬の給食に出ることや、各々エピソードもある。給食で出ていたジャージャー麺は甘めな豚ミンチのソースにちぢれ麺だった記憶。そしてジャージャー麺は日本の給食で初めて食べたものだから日本にしかない中華料理と勝手に思っていた。


小学校の後はあまり食べる機会もなく、そのまま大人になったら、の実家に帰った時に出てきた。あ、なんだこれは中国料理だけど広東料理じゃないから食べたことがなかっただけか、とその時気づいた。小麦粉から手作りで作った麺に甜麺醤のソース、きゅうりと一緒に食べる、義母が作る料理の中で一番好きな料理の一つ。


そして、先週食べに行ったのは韓国バージョンのジャージャー麺。ここは何がおいしいかって麺がおいしい。弾力があるけど、コシというよりモチモチしている歯応えが好き。きゅうりが少ないようにも思えるが、まあよしとする。

ここは平日だろうがなんだろうがいつも人が並んでいる大人気のお店で、たまにすごく食べたくなる。ジャージャー麺も美味しいけど、ここで一番美味しいのちゃんぽん(Jjampong)。日本のちゃんぽんと違って、真っ赤で辛い。そしてここのちゃんぽんはエビだけでなく、イカ、ムール貝も入っている、豪華なもの。いつもスープが残るからそれを持って帰って次の日ご飯と食べるのがまた二度おいしい。