嗤う伊右衛門 // 京極夏彦 | みゅうず・すたいる/ とにかく本が好き!
嗤う伊右衛門 (中公文庫)/京極 夏彦
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 「嗤う伊右衛門」


 京極夏彦、著。 平成11年。



 先日、ぽんぽ子さんのブログで取り上げられて

いたので、何となくパラパラと眺めている内に

気付けば再読してしまっていました。


 しかし、四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」は

何故こうも人気があるのでしょう・・・。

小説・映画・TVドラマと、何度もリメイクされたり、

題材にした新作が発表されています。


 人間の情や恨みが、これほど凝縮した物語は

確かに稀有かも知れません。

それ故に、何度も作品化され、もはや書き尽くされた

感があります。


 そこに京極夏彦氏が、あえて斬りこんだのがこの

作品なのですが・・・。


  

 疱瘡を病み、姿崩れても、なお凛として正しさを

失わぬ女、岩。 娘・岩を不憫に思うと共に、お家

断絶を憂う父・民谷又左衛門。 そして、その民谷家へ

婿入りすることになった、ついぞ笑ったことなぞない

生真面目な浪人・伊右衛門・・・・・・。

渦巻く数々の陰惨な事件の果てに明らかになる、

全てを飲み込むほどの情念とは・・・・・・!?

愛と憎、美と醜、正気と狂気、此岸と彼岸の間に滲む

江戸の闇を切り取り、お岩と伊右衛門の物語を怪しく

美しく蘇らせる。

四世鶴屋南北「東海道四谷怪談」に並ぶ、著者渾身

の傑作怪談!

 (裏表紙より引用)


 狂言回しとして、小股潜りの又市が登場する

この作品は、「巷説百物語」の外伝と位置付けても

良いかも知れません。


 伊右衛門も、岩も自分の思いを言葉にして、上手く

伝えられない人間であり、コンプレックスやトラウマを

抱えている、行き違い・・・、ボタンの掛け間違い・・・、

それがやがて悲劇に繋がって行く。


 悲劇・・・。 この作品の場合、それを「悲劇」であると

見るのは、この二人以外の人間。

それは、例えば又市であり、按摩の宅悦などです。


 伊右衛門も岩も、自分の信念に従って「正しいこと」を

しているに過ぎない。 これは、歪な愛の物語なのです。

自分の作り上げた「正しい愛」は、そもそもが間違っている

事に二人とも気付かない。


 その上にさらに重ねられる「自分だけ」の思いによる

行動が、(むろん、伊東喜兵衛と言う悪党の企みの下

でではあるが)徐序に亀裂を深くして行く。


 そして、その亀裂がもはや自分が目をそらすくらいでは

如何ともし難い程に大きくなった時、自ら創り出した

亀裂が己を飲み込む。


 全て正しき事を為し、自己の愛を貫いたと信じる

岩が、「現実」を知らされた時、全ての価値観は崩壊

せざるを得ない。

それは、岩にとっての「世界」の崩壊と同義だ。


 「何故聞かせたッ。 何故知らせたッ。 肝立たしや哉

恨めしや、わしは・・・・・・己等が憎いわッ」

・・・、岩が・・・、世界が崩壊する。


 伊右衛門もまた、自己の価値観が己を崩壊させる。

意思の揺ぎ無さが、精神の根源を徐序に破壊する。

そして、ついに伊右衛門は破壊された世界に安息の

場所を見出す・・・。


 徳川末期と言う、武士が己の存在意義を「思想」と言う

理論武装によってしか見いだせない「時代の悲劇」でも

あるのかも知れません。


 あるいは、冒頭で伊右衛門は蚊帳の中から外界の

薄ぼんやりと霞んだ景色を嫌悪するのですが、このぼんやり

したものを「よし」と出来たなら、彼は世界と乖離せずに

済んだのかも知れません。


 人とは・・・、悲しい生き物ですね・・・・・・。

人間は、悪意によってのみならず、善意によって悲劇を

引き寄せる場合もある。


 言葉にしなければ伝わらない場合もあるのですね。

私も気を付けよう・・・。