こんばんは!

俳句のみろく堂オッドアイ猫家登みろくです。

 

まずはamazonさんでも「ねうねう」の発送が始まったようで

全国の皆さんから「ねうねうvol.3」届いたよ~という声が乙女のトキメキ

 

 

 

こういう時、涙が出るほどうれしいです。

句が送られてきたときも、脱稿したときも、本が出来上がったときも

本を買っていただいたときも、寄付ができたときも嬉しいですけど、

「面白かったよ!」とか「嬉しかった!」っていう言葉には

涙腺がゲリラ豪雨状態ですね。涙がとまらんねこクッキー

本当にありがとうございます。

 

 

さて、本日は「ねうねうvol.3」にもご投句くださっている

辻村麻乃さん(篠副主宰、ににん)よりご献本いただいた

第二句集「るん」の第一章「るん春」を鑑賞いたします。

 

 

詳しくは「あとがき」に記されていますが

「るん」とはwikiによると

 

プラーナ(: प्राण、prāṇa) は、サンスクリット呼吸息吹などを意味する言葉。

日本語では気息と訳されることが多い。

チベット仏教瑜伽行では、この概念は「ルン」(rlung、風)と呼ばれる。

 

という概念からきているそうです。

 

麻乃さんのすてきな俳句の前にね、

筑紫磐井さんの「序」の素晴らしいこと…

麻乃さんにつられて、筑紫さん自身も少年になったような

不思議な物語なんです。はあ~、面白くてため息出る。

 

 

 

足遅き群衆にゐて春夕焼

 

群衆がのろのろと歩いているように感じたのは

麻乃さんが「どこか、はやる気持ち」の中にいたからかもしれない。

お父様お母様の待つ家路を急いでいるのか…

それは定かではないけれど

麻乃さんは「もう、どうしてみんなこんなにゆっくり歩いてるの!」と

少し背伸びして、群れの先頭を覗こうとする。

その瞬間、

春のとろけそうな夕日が沈むオレンジの海みたいな空が目に入って

釘付けになってしまう麻乃さん。

行きかう人の中で、自分の時間だけが止まってしまったかのように。

そして、ちょっとだけ強い風が吹いて、

我に返る麻乃さん。

 

…なんだか、映画みたいにかっこいい句。

私、磐井さんと麻乃さんの魔術に、かかってしまったようです。

 

 

珈琲粉膨らむまでの春愁

 

この句も、短いような長いような一瞬を切り取っている。

珈琲を丁寧にドリップして入れようとすると

注いで、様子を見て、注いで、また待ってと気が抜けないのだけれど、

そんなひとときでさえも浮かんできてしまう、ある愁い。

でも、珈琲の粉がフィルターから溢れそうになるのを見て

はっとするその次の瞬間には

何について考えていたのか忘れてしまう。

春愁いなんて、そんな淡く儚い愁いなのかもしれない。

滴るコーヒーが、麻乃さんを日常へ急き立てている。

他愛ない愁いと、日常を行き来しながら、

私たちは生きている。

 

 

次こそのこその不実さ蚕卵紙

 

恥ずかしながら、蚕卵紙のことは良く知らなかったのですが

「次こそのこその不実さ」に、大いに頷けるような

いやむしろ耳が痛いような。

過去の不義理の数々を思い出して、悲鳴をあげそうになりました。

 

たくさんの人の「次こそ」を幾度も信じて来たけれど

その約束が果たされることはなく、

いつも裏切られてきたし、時には裏切る側になったこともあるかもしれない。

そんな営みを繰り返す人間と、

「野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物」であるの一生とは

どちらが絶望的だろうか。

飛べなくても、、運命が決っていても、今日産卵する蚕のように、

私たちはただひたすらに生きていくことしかできない。

 

 

 

きりりと決まった写生句も多々。

 

豆腐屋の声遠ざかる四音かな

窓毎の家族の色や月朧

凡人でありし日の父葱坊主

谷底に吸はれるやうに燕飛ぶ

 

 

 

春の句を読み終えて、

私も磐井さんと同じ気持ち。

麻乃さんは、「教科書のない国から来たの?」

 

燕の巣そろそろ自由にさせようか

 

春の章の終わりにこんな句をもってきてしまう!

麻乃さん、なんて魅力的なひとでしょう。

 

次回は「るん夏」の章を鑑賞します。

みろくでした黒猫