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パート2は、焼き菓子とマロンのアイスクリームで
自分のブログに一ヶ月以上ふれていなかったなんて
信じられませんが、ようやくブログに復帰しました。
お正月からひどい病に見舞われ
頭部に関係する症状だったため、仕事以外ではPCなどに触ることもおっくうな毎日でした。
新年の一ヶ月をほとんど仕事と通勤以外は寝て過ごすなんて2009年なんて幕開けなんでしょう。
ここにきてようやく調子もあがってきたのですが
今年はのんびり行こうと思います。
このブログも気の向いたときに のんびりと更新をしていければと思っています。
何はともあれ、今年も美味しく楽しい一年になりますように
皆さまのご健康とご多幸をお祈りいたします。
毎年、家族や友人の誕生日の他に、思い出す日が何日かあります。
今日(明日)が阪神淡路大震災の日だった、ってことも思い出します。
今年は、朝の4時15分(地震があったのが4時17分だったと思います)に眼を覚ます始末。
その日 大阪にいた私は、大した被害には遭わなかったものの
地震そのものそれからその後の日々を振り返るにつけ
やはり被災者の一人だったと思うのです。
あの日の朝のことはよく覚えています。
普段目を覚ますような時間では決してないのに、なぜか地震の数十秒前に眼が覚め、
「何?」って思っていたら、ぐらぐらと来ました。
急いでテレビをつけたこと、すぐに両親や友人から電話があったこと。
でも、その後、すぐに電話が不通になってしまったこと。
テレビを見てたら「あ、大阪でも火の手が上がりました!」ってアナウンスしてる現場が、
同じ角度で私がいた部屋からも見えてたこと。
7階建の7階にいた私は、もっとスゴイ揺れがあって建物が倒壊したら、
押しつぶされることはなくても、外に出れなくなっちゃう と思い、
普段とは全然違う気持ちで皆のいる場所に向かいました。
「皆と一緒が一番安全」と。
前の晩にカレーライスを作ったことも覚えています。
キッチンが大変なことになってました。
ルーが床にぶちまけられて、カレー粉の香りがあたり一面漂ってます。
その上に食器棚が倒れこんで、電子レンジが吹っ飛んで。
泣きながら、『何なのよ~』って言いながら、玄関までの道のりを掃除して通路を確保しました。
声でも出していなければ、何か大きい渦に飲み込まれてしまいそうで
「負けるな」って自分にガッツかけてました。
お部屋を出てから一度JRの高架を通らなければなりません。
たった数秒なのに、「どうか倒れてきませんように」と祈りながら通りました。
当然、昼間は何もできませんでしたが、食堂ではランチが給仕されました。
「ここにいれば、安心」って どんなにありがたく思えたことでしょう。
夕方はかなり出遅れました。
近所のスーパーに行ったら、目ぼしい食べ物はほとんど売り切れか入荷不能でした。
お湯が出なかったので、カップ麺も役に立ちません。
これから「生活が成り立つのか」、と急激に奈落の底に落とされたようなキモチになりました。
お金って最終的には何の役にも立たないって実感しました。
ほどなくして、母からお水や食物の救援物資が届きました。
涙が出るほど嬉しかったです。
しばらく、夜、部屋の電気を消して寝ることができなくなりました。
正直、今でも、たまにそんな晩があります。
カレーライスはその後半年くらい食べれませんでした。
もともと臭いに敏感な私は カレーのにおいを嗅ぐだけでも、目の前がくらくらすることもありました。
前日の日曜日に北野天満宮に梅を観に訪れたことも鮮明に覚えています。
あまりにキレイに咲きこぼれていた白梅、紅梅が鮮やか過ぎる印象です。
でも、ほんとはどうだったか、今はもう知る由もありません。
連絡が取れなかった、神戸に住んでいた友人と、数日後に連絡がとれました。
つっかけで歩いて神戸から実家の和歌山まで歩いて帰ったとか。
父が芦屋在住の知り合いの作家の方と連絡を取ったとき、ご自宅が半壊なさっていたにもかかわらず、
「お嬢さんは大丈夫でしたか?」って気になさって下さっていたそうです。
そういう空気は漂ってました。
皆、「私は大丈夫だけれど、○○さんは?」というように。
家はなくなっても、人の優しさまではなくなっていない
それどころかそこらじゅうに溢れていました。
不思議なことに、そこでやるべきことを一旦休止して実家に戻ろうとか、考えなかった。
混乱してたけれど、この状況がどうやって収まっていくのか、
立ち直っていく様を、私も地に足つけて、一緒に見届けなければ!って感じで。
っていうか、それすら、ちょっとしてから思えたことなんですが。
そうやって、少しずつ度胸がついてしまった、私です。
今でも被害に遭った方々のご冥福を祈ってやみません。









