築地にあった今は幻の名園「浴恩園」 | 話のコレクション

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食べ歩き、旅行、散歩を中心に記事にします。が、それらに行けぬ時は、古今東西の興味深い話を記事にします。

 

先日、「東京・築地市場跡地が、再開発される。野球、サッカー、コンサートなどを開催するスタジアムを作る。スタジアムの周辺には、ホテル、商業施設も建設する」とのニュースが流れた。

 

築地市場跡地の再開発には、読売新聞グループも一枚噛んでいる。

だから、「巨人は本拠地を、東京ドームから築地の新球場に移転させるはずだ」という噂が流れている。

 

ところで、築地市場跡地には、かって浴恩園という名の名園があった。

この事を知る国民は、今では少ない。

 

 

江戸幕府の老中を務めた者の一人が、松平定信であった。

彼は、「寛政の改革」をしたから、歴史の教科書に載っている。

皆さんも、学校で学習したから、彼の名前ぐらいは覚えているでしょう。

 

江戸時代、松平定信は、築地にあった自分の下屋敷を整備し、庭園を造った。

この庭園こそ、浴恩園であった。

 

定信は、生涯に5つの庭園を造った。

そのうち、一番出来が良かったのが、浴恩園だったようだ。

 

定信は、老中を辞めた35歳から浴恩園を作り始めた。

そして50代半ばに、上屋敷から浴恩園(下屋敷)へ移り、暮らしたという。

 

浴恩園の中心は、春風の池と秋風の池。

2つの池は、海水と河川水が、混ざって入り、釣りを楽しむ事が出来た。

池には、小島があり、橋で渡る事が可能であった。

 

春風の池の周囲には、桜の木が植えられた。

秋風の池の周囲には、紅葉が植えられた。

 

つまり、春には桜を、秋には紅葉を愛でる事が出来たのだ。

 

また、浴恩園には、築山、桃、梅、菊もあった、という。

 

ここでは、書画会、歌会、茶会なども開催され、文化人と定信が交流していた。

 

しかし、文化12年(1829年)に起きた江戸の町の大火で、浴恩園は焼失した。

この年、定信は70歳で亡くなった。

 

浴恩園が今も残っていたら、浜離宮庭園や六義園、小石川後楽園のように、多くの観光者を集めていたに違い。

が築地市場は、作られなかったはずだ。

 

文化12年(1829年)に起きた大火災で、江戸(東京)の運命、歴史が変わってしまった。

 

※画像は、1枚目が築地市場跡地。2枚目が明治時代に描かれた浴恩園の絵。