淀の方(淀殿、茶々)といえば、天下人豊臣秀吉の側室、豊臣秀頼の母として有名だ。
数多くの映画、ドラマ、歴史教養番組に登場。
日本人なら、知らぬ人は少ないだろう。
淀の方は、慶長二十年(1615年)、大坂夏の陣の時に、大阪城内で自害した。
これが、定説である。
ところが不思議なことに、大阪から遠く離れた群馬県前橋市総社町の元景寺に、彼女のものと伝わる墓がある。
この地方には、以下の言い伝えがある。
大坂夏の陣の時、徳川家康の家臣・秋元長朝の陣所に、豪華な着物を着た女性が飛び込んできた。
そして、命乞いをしたのだ。
長朝は、
(この女性は、淀の方だろう)
と、見抜いた。
長友は、上野国総社(現在の群馬県前橋市総社町)を治める1万石の大名だった。
長朝は淀の方を籠に乗せると、自分の領地に連れ帰った。
そして、内緒で匿った。
世間、徳川将軍家にばれないよう、淀の方を、「お艶の方」という名前に変えた。
ところが、長朝は、淀の方の美貌にクラクラしてしまい、しきりに口説くようになった。
プライド高い淀の方は困惑し、遂に近くの利根川に飛び込み亡くなった、という。
その後、元景寺に彼女の墓が建てられた。
現在、秋元長朝の墓と、淀の方らしい女性の墓は、いっしょに並んでいるという。
また、元景寺には、
■正絹の大打掛
■豪華な籠の引き戸
が残っていて、これらは淀の方の遺品と伝わってきた。
それから、前橋市の敷島公園には、お艶が岩がある。
この地の伝説では、淀の方はその岩から、利根川に飛び込んだ、ということだ。
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淀の方は大坂城では死なず、群馬県まで逃げていた――。
という話は面白い。
が、秋元長朝が言い寄ったという話には、やはり無理がある。
というのも淀の方は、若い頃疱瘡(天然痘)を患い、あばた顔だった、という説がある。
美人どころか、醜女だった可能性があるのだ。
おまけに、大坂夏の陣の頃は、40代半ばになっていた。
平均寿命が短かった当時は、お婆さんと言っていい年齢だ。
長朝がそんな女性にムラムラするとは、どうも思えない。笑
地元の歴史研究家の説では、
「お艶の方は、秋元長朝の側室だったのではないか?そして、正室との争いに負けて、利根川に飛び込み亡くなった。この話がいつの間にか、淀の方に変えられてしまったのでは?」
研究家の説の方が、信憑性が高そうだ。
ちなみに前橋市には、源義経の愛妾・静御前のものと伝わる墓もある。
現地の言い伝えでは、
「静御前は、奥州平泉にいる義経に会いに行く途中、ここで亡くなった」
しかし、以前、静御前の墓を発掘調査しても、証拠になるものは全く出なかった。
ここも、彼女の墓か、極めて怪しいのだ。
静御前に、淀の方。
江戸時代の前橋には、伝説の美女、お姫様を使って、話を創作するのが好きだった者がいたのかもしれない。
●この記事の画像は、
1枚目 淀の方の肖像画
2枚目 お艶が岩のある敷島公園
3枚目 大打掛
4枚目 籠の引き戸