バカ殿の為に消えた沼田城の天守閣 | 話のコレクション

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  沼田公園
 
 今から30年ぐらい前だ。
 私は、群馬県の沼田市街を散策した事があった。
 
 この時、私は沼田公園へ寄っている。
 この公園は江戸時代、沼田城であったという。
 
 しかし、この時園内に入ってジロジロ見ても、どこの市町村にもある平凡な公園って感じで、特徴に乏しかった。
 (ここは本当に、昔城だったのだろうか?)
と思ったほどである。
 
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         真田信幸(信之とも)肖像画。「真田丸」では大泉洋が演じ
  る。
 
  2016年、NHKでは、大河ドラマ「真田丸」を放映していた。
 「真田丸」の主人公は、真田信繁で、彼の兄が真田信幸だ。
 
 その真田信幸が、沼田城の城主になったのは、1590年頃であったという。
 
 真田信幸の父昌幸、弟信繁は、関ヶ原の合戦の時、石田三成率いる西軍に味方した。
 西軍が敗北した為、昌幸と信繁は領地を没収され、九度山に蟄居する事になった。
 
 一方、真田信幸の方は、「勝ち組」になった徳川家康率いる東軍に味方した為、父親の領地をそのまま受け継ぐことになった。
 
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 関ヶ原の合戦のすぐ後、彼は、沼田城に五層の天守閣を建てた。
 すぐ上の画像が、その天守閣の想像図である。
 
 以後、5代約80年間も、沼田城は真田家のものであった。
 ところが、5代目の沼田城主・真田信利は、英雄だったご先祖様(真田昌幸、真田信繁)と大違いのバカ殿だったらしい。
 
 例えば、見栄を張って、江戸の自分の屋敷を立派にした。
 それから領地の石高は6万石(3万石という説もある)だったのに、徳川幕府には、14万4千石と過大申告した。
 また沼田城を改築して、さらに立派なものにしたようだ。
 
 信利がこんな事ばかりするものだから、沼田藩の領民たちは、重税に苦しんだ。
 
 1680年、真田信利は、徳川幕府から、
 「江戸の両国橋を架け替える事になった。そのための用材を、おぬしの領地から、差しだすように」
と、命じられた。
 
 だが重税を課せられ、生活が疲弊しきった領民たちの反発が強く、彼等から協力を得られなかった。
 そのせいで信利は、期限以内に、用材を幕府へ差し出す事が出来なかった。
 
 この失態に、徳川幕府はカンカンに怒った。
 天和元年(1681年)、真田信利は領地を没収された。
 
 さらに翌年(1682年)、幕府は沼田城を徹底的に破却した。
 この時、初代藩主・真田信幸が建てた5層の天守閣も、破壊された。
 
 その為、沼田城の天守閣は、「幻の天守閣」となったのだ。
 
 なお真田家の本家の方は、この時代は既に、信州の松代を居城としていた。
 松代の真田本家は、バカ殿が出なかったので、幕末まで続いた。
 
 信利が江戸の自分の屋敷を立派にしたのは、真田本家の屋敷を超えたかったから、という説もある。
 真田分家の当主だった信利は、どうも本家への対抗心が、異様に強かったようだ。
 本家への対抗心、見栄っ張りなどが、我が身を滅ぼす要因となったのだろう。
 
 このあたりは、我々現代に生きる者たちにも、教訓になると思われる。