私の原点その1 平和を守ること マイ グランマとの約束 | 泉南 北村みきのブログ

泉南 北村みきのブログ

平和と民主主義を守り育てていきましょう。

みなさんこんばんは、北村みきです。
見に来てくださって、ありがとうございます😊

政治家を志すに当たっての私の原点。
ひとつは、平和。

ふたりの祖母のことをお話しします。

父方の祖母は、
(写真が手元になくて残念)
小学校の教師でした。
戦前は尋常小学校(高等科含む)、戦後は普通の小学校。

祖母は、病気で亡くなる前に、私に話してくれました。
世の中のこと何も知らずに、お国のために、教え子たちを『満蒙開拓青少年義勇軍』として大陸に送ったこと。
(当時は高等科卒業生を何人大陸に送るか、学校ごとのノルマが課せられていました。校長先生から○名募集などと人数を指定されて、祖母は忠実に教え子たちを勧誘したそうです)
いつも優しい先生に勧められて、祖母を信じて志願した教え子たちの半数は、故郷に帰って来られなかったこと。
戦後、教科書に墨を塗らせる時が一番つらかったこと。
昨日まで正しいと教えて来たことが全部間違いだったと、子どもたちに対して『あなたたちを騙して来た』と、言わなければならなかったこと。

間違ったことを正しいと信じて教え子たちに教えて来たことを亡くなるまで悔やんでいました。

だから、戦後いったんは教壇を去りました。
教師が足りなくて校長先生から戻って来てくれと懇願された時も、自分のような教師が子どもたちの前に立つことはできないと、固辞しました。
校長先生から、
「戦後、民主主義の世の中になって、中には平気でこれまでのことを忘れて反省もしていないような先生もいる。子どもたちにとって、貴女のように軍国主義教育を心から反省している先生こそが、教室に帰って来てほしい」
と言われ、戻るなら今度は絶対に子どもたちを守ると心に決めて、教職に戻ったそうです。
そして「教え子を再び戦場に送らない」生き方を貫きました。

「だから、みきちゃんが先生になるのなら、学校の勉強だけでなく、世の中の勉強もしっかりとやって、もし世の中がまた戦争するような空気になってきたら、たったひとりでも立ち向かって反対するんだよ」

これが祖母の私への遺言です。


もうひとりの祖母、
母方の祖母は、
私の母が幼い頃病気で亡くなりました。
だから、母は自分の母親に抱かれた記憶さえありません。
最近、伯母(母の姉)から古い写真を見せてもらいました。祖母の若い頃の写真です。
{785554B7-600C-45DC-9FAA-05282F6C3764}

{5E5F07B8-4F34-42B9-ABED-989511A04084}

祖母は、喉にできたおできがもとで亡くなりました。戦争が激しくなって、お薬が手に入らなくて、祖父は煎じて患部に塗るためのドクダミの葉を探して探して、あちこちを回ったそうです。
もし戦争が無かったら、助かった命でした。

生まれたばかりの母の妹も、生後半年くらいで亡くなったそうです。

祖母は終戦の一年前、
叔母(母の妹)は終戦の年の5月に亡くなりました。

祖母は文学少女で、読書が大好き。詩や短歌を作ったりしていたそうです。
庭に芝生を植えて子どもたちを遊ばせていたら、国防婦人会の面々が来て、このご時世に贅沢だ、芝生を剥がしてカボチャや芋を植えろと言って来ました。反発した祖母は、芝生を掘っくり返して、庭いっぱいにコスモスの種を蒔いたのでした。
秋、庭いっぱいのコスモスの花盛り。
どんな思いでその花々を見たのでしょうか。

母親の顔も覚えていない私の母は、それでもコスモスの揺れる庭の光景はうっすらと覚えているそうです。

そういうわけで、私の母のいちばん好きな花はコスモスなのです。
{CC0250C3-2CEA-441E-B018-96E1866A307A}
戦争は、世の中から色を無くしてしまいます。
花を愛する心も、芝生で子どもたちを遊ばせる余裕も認めません。
そんな世の中にしたくない。

私の原点は、平和です。
平和でなければ、だれも幸せになれない。
みんなで幸せに生きたいから、平和を守ります。
ふたりの祖母との約束です。