らくふわに生きる研究家です
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1gでも心がが軽くなれるような
お話ができたらともってます
誰かお皿を洗って欲しいな。。。。
キッチンのシンクに
調理に使ったお鍋とかフライパンとか
次々と使われるコップとか お肉の脂のついたお皿とか
ごちゃっと入っているのを見ると
うわ、やりたくないなー、めんどくさいなー
と思ってしまって
後回しにしてしまうと
またどんどんやりたくなくなってしまう。。。。
そんな悪いループによくハマっていました。
色々解決方法を考えたんですよ。
ご飯を食べ終わったら
各々が洗ってラックに伏せるまではやろう とか
洗わなくてもいいから さっとすすいで食洗機に入れよう とか
そもそも私がご飯を作るんだから
作ってない人が洗ってよ とか。。。。
そうだよ!
なんで私ばっかり
当然のように家事をするのが当たり前になっているのさ。
もう、20年以上もこちとらやってるのよ。
この後も何十年もこれは私の仕事ですって
やらされるのかーーーい!
と、急にむかーーっとしたりして
これ、今じゃないところでストーリーを展開して
自分で勝手に怒りを楽しんでいるんですけど、
当時はそんな風には考えられなくて。
お皿洗いに関して プンプン げんなり していました。
色々取り決めてもうまくいかなくて
ストレートに「お皿洗って欲しいな。。。」
と頼んでみても みんな 「えー、いやー」
と、つれないお返事。
。。。。ですよね、
私もやりたくないですもん。
子育ての観点からすると
私の子育ての先生は
「子供にお手伝いをさせようと思ったら
お母さんが本当に楽しそうにやることが大事です。
こんなに楽しいことってないわ! と言うくらい
喜びをもって お皿を洗うんです。
そうすると こちらから働きかけなくても
子供は自然とまねをして
お皿洗いをしたがります」
とおっしゃっておりました。。。。
そうなんですよー
そもそも私が、お皿洗いは嫌い、やりたくない!と思って
嫌がっていることを
子供や夫に頼んでも
そりゃ、やりたくないモードになりますよね。
結局こうなりました。
そこで私は 意識を変えようと思いました。
今ここ、
このお皿と私だけの関係を考えよう
他のストーリーを一切外して。
例えば
みんなのために働いてるのに
なんで 1日家にいた君たちの汚れた食器を洗わなきゃいけないの?
とか
私奴隷みたい。かわいそう、こんなことのためだけに生きてるんじゃない!
とか
〇〇さん家はいつも旦那さんが洗ってくれるって言ってた
とか
みんな私の気持ちを理解してくれない!
とか
家庭教育に失敗した!
とか
どうせ私が犠牲になればいいのね!
とか、とか、とか。。。。
考えようと思えば
次々と浮かんでくるストーリーは
事実ではないことを認識して
冷静に お皿たちを眺めて お皿と私だけになって
『汚れているものがずっとここにあったら
私が気持ち悪いから
私が洗いたいと思ってる。
今、この目の前のお皿を 私は洗うことができる。』
。。。。じゃあ、やろっと。
フラットな気持ちで お皿を洗うことができました。
それからと言うもの、色々試していて
自分の好きな配信を聴きながらやってみたり
スポンジとか 食器洗いグッズには出し惜しみせずお気に入りを探したり。
そして今は、食器洗い瞑想を楽しんでいます
お茶のお点前みたいに
とっても丁寧に さも 意味があるかのように 食器を扱い
水の流れも まるでししおどしに流れる水のごとく
その音を聴き
陶器のお皿を洗う時、木のお椀を洗う時
ステンレスのボールを洗う時の
スポンジの擦れる音の違いを楽しんだり
たまにステンレスのボールがどこかにぶつかってしまうと
ぼーーーん と音がなるんですけれど
それをまるでシンキングボールのように聴き入り
お皿を洗うことで 瞑想したかのような時間を持てている
一石二鳥な感じに満足しています
あと 全部やらなきゃとかも思わなくなって
できるときに できるのもだけ。
そう思って、洗って伏せてあった食器を片付けるだけで
シンクの中のものはそのままにしていて
後でやろうと思っていると
夫が洗ってくれていたり
そんなことも増えてきましたよ
でもそれは おまけかな
大事なのは 嫌だなーと思うことも
意識の変換でどうにでもなる!
ってことだと思いました。
最後までお読みいただきありがとうございました
今日の合言葉は
「お皿は悪くない!意識次第でどうにでもなる」
良い1日をお過ごしください