Hikaru Narita

13時間 

起源200年頃 未だ卑弥呼が生きていた時代です。

「安曇」を調べますと「阿曇氏 - 海神(ワタツミ)を信仰する一族。 安曇族。」 とありました 徐福(紀元前2世紀)と安曇野 勾玉と貝殻を運ぶ人たち 綿津見の祖先が科野 にきていたのが驚きで、行ってみたい場所でした。

呉から来た安曇族
九州王朝の場所を伝えていた

安曇族は呉から来た民なので漢字を知っていたそうです。
交易に必要な道具≒コミュニケーションツールなので当然だと思います。

記紀に取り上げられない文化交流が弥生時代からあり、
遺跡の発掘の証拠により半島や大陸と文物をやりとりしていているのは明らかです。

 

安曇と残る地名に彼らが痕跡を残していますね。今年行こうと思って行けなかった場所。

四国九州のほうが回る順番だったみたい(^_^;)

九州とのつながりが深い安曇氏 長野を調べてから行けってことね。

もっと知りたいですね。

 

海神の姫神様が玉依姫と豊玉姫 

ウガヤフキアエズの母と皇后ですね。ウガヤフキアエズ王朝は鵜戸神社周辺に吾田媛がいらしたのだと思います。九州南部東部がそのテリトリーのようです。子孫が連合国として在ったのだと推測できます。言葉が~~するとよ。です。

海神の神の娘の木花咲耶姫は大山積神の娘でもあります。縄文からの大山積神に海神の神が嫁いだ形になっていますね。姉の磐長姫は大山積神の元へお返しします。つまり婿入しないで新居を構えたという意味でしょ?

野間に上陸し新婚生活❤(ӦvӦ。)霧島で木花咲耶姫と子育て、延岡で老後という感じのようです。

木花咲耶姫は吾田媛とも呼ばれ海洋民族です。

三島神社の御祭様です。

三島は鹿児島南端から近い島です。

三島村は、薩摩半島南端の長崎鼻から南南西約40kmの位置にある「竹島・硫黄島」、坊ノ岬から南西約50kmの位置にある「黒島」の三島、及び無人の「新硫黄島」や数個の岩礁から成り立っており、九州南端から南西にのびる南西諸島の最北部に位置しています。
竹島と硫黄島及び周辺の岩礁は中新期琉球火山脈に属する大型カルデラで、6,300年前に大噴火した鬼界カルデラの北西縁にあたる陸上部分をなしています。
また、黒島は宇治群島や草垣群島などと共に旧期琉球火山岩帯に属しています。

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7300年前 6300年前に大きな噴火で、天災の在った場所なので、火山灰に埋もれてる遺跡は手つかずだと推測できる。

 

 彼ら海洋民族は船を持っていたと考えられ、愛媛大三島付近が彼らのテリトリーになっています。そして、遠くは沼津の三島大社が拠点で神武天皇東征で関西入りできたようです。三島溝杭の娘を東征が成功した神武天皇は后に向かえます。その前の吾田媛との子供は粛清されます。(息子を粛清された吾田媛は恨みたっぷりのはず、、、)

三島は久留米にあります。筑後川を挟んだ佐賀にはないのよ。(笑)

三島溝杭と溝口竈門神社(行ってきました) は縁戚かもよ。

 

 九州北部大分福岡と南部鹿児島宮崎の交易証拠から往来していたことはわかっています。

上野原遺跡は隼人族の遺跡になっています。おそらく霧島あたりが、彼ら縄文人と弥生人が暮らした拠点で磐長姫を実家の上野原にお返ししたので、瓊瓊杵尊は上野原に住んでないですね。(笑)

 

おそらく新婚生活していた野間あたりが地震で天災に会い、霧島で子育てしたものの、天災にも見舞われ宮崎を拠点に日向の国延岡に移住したのかもです。

海彦山彦は兄弟喧嘩したことになってるので、海彦は隼人として上野原に残りますね。

 

 追い出された山彦(彦火火出見)はおそらく宮崎日向の国を掌握 日南 鹿児島の鹿屋(かのや)あたりが吾田媛=ウガヤフキアエズ末裔のテリトリーだったのではないかと思います。

これね、オイラのシナリオ(^_^;)

 

犬飼氏も知りたいです。

豪族の痕跡は日本は王族≒今で言えば県知事クラスの豪族 という意味のようです。

日本各地に弥生遺跡があって、それぞれ交易の痕跡があるので、大きく分けて3つ 

出雲合衆国甕棺 倭連合石棺 そして縄文を受け継ぐ連合国木簡の存在があるようです。

 

根塚遺跡主な遺構

  • 落とし穴(4基)〈縄文時代〉
  • 円形墳丘墓・木棺墓〈弥生時代〉
  • 割竹形木棺墓(2基)〈古墳時代〉
  • 住居址・鍛冶炉跡〈平安時代〉
  • 掘立柱物址〈中世〉

■土器

 弥生時代後期の赤い土器(「箱清水式土器」)が大量に出土しました。

■鉄剣

 渦巻き飾りがついた特殊な鉄剣が出土しています。この鉄剣は弥生時代後期のものとして日本最長を誇り、類例はまだありません。

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 この国は弥生時代後期の200年頃 百余国在ったことが魏志倭人伝に記されていますね、日本書紀によると伽耶国へ日本から大使を送り交易していたようです。彼らは文字を使って取引を行っていたと推測できます。

日本書紀によると仲哀天皇は朝鮮半島の存在はご存じなかったようですが神功皇后はもちろん知っていた。(笑)

 

 

 紀元前の糸島では古銭がでているので交易は間違いがないと思います。志賀島拠点の安曇氏は伽耶国を行ったりきたりしていたようですね。遺跡にその後が残っているようです。

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九州の福岡(博多)、漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)印が発見された あの志賀島(しかのしま)

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彼らが意思疎通に使った道具と思われる硯が田和山遺跡(松江)から出土しているので彼らの文化程度も相当高かったのだと思います。乙巳の変で焚書されてなければもっと歴史がわかったのでしょう。鬼界カルデラの噴火で縄文人はてんでんばらばらに移住してしまってるので、朝鮮半島南部にも縄文土器の出土がありますね。たぶん、その頃からの移住による混血や交易があり、弥生時代が始まります。伽耶国にも前方後円墳がありますが、日本よりも後のことになります。

 

 

 天照大御神が稲作の神、迦毛の大御神が麦作の神、これならば二柱の大御神の説明がつく

鴨がしょってくる文化

 

住吉三神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 が阿曇氏との関係の深い神様

高良神社様が御祭神として祀っておられます。

向かって右  八幡大神  (はちまんおおかみ)
中央     高良玉垂命 (こうらたまたれのみこと)
向かって左  住吉大神  (すみよしおおかみ)

 

김승호古代史研究会

19時間  · 

【 日本の基層には伽耶文化がある 】

◆ 根塚遺跡:長野県下高井郡木島平村にある。紀元200年前後の科野最大の墳丘墓である。

出土品は長さ74センチの伽耶の鉄剣と伽耶系土器が出土された。

約2~5センチ四方の9点のつぼなどの土器片が、形状や土の質、焼き上がりから三韓土器だとわかった

★根塚遺跡:長野県木島平村往郷229-イ

◆ 木島平村

きじまだいらむら 

木島平村の標高は?335 メートル の豪雪地帯で米が穫れる

「カヤノ平」という所がある。茅(萱)の生い茂った平野という意味でしょうが、「カヤノ」を伽耶系渡来人が自分の原郷になぞらえて「伽耶野」と呼称したものが、後世になって「茅野」と混同し、そのまま伝承されたのはあるまいか。

◆ 伊豆毛(いづも)神社:出雲につながる旧社である。外来系濃厚の神である。『信州の韓来文化』、今井泰男、18p

孝明天皇元治元年(1864年)八月七日正四位下。 鬼の首塚伝説がある

★伊豆毛(いづも)神社:長野県長野市豊野下伊豆毛845

◆ 湯福神社:伊吹の名も考えられ、韓国の鉄技術神と考えられる。21p

★湯福神社:長野県長野市箱清水3丁目1-2

健御名方命(お諏訪さま)の荒御魂をおまつりしている神社です。

御祭神の健御名方命は『古事記』によると、大国主命(大黒さま)の次男です。「タケ」は猛々しい力を表わし、「ミ」は尊称、「カタ」は水辺を意味し、水を司る力の強い神として信濃国の守護神とされるだけでなく、日本中に「諏訪信仰」として広まっています。諏訪大社を御本社としたその分社は1万2千社余を数えます。

◆ 巴形(ともえがた)銅器(上平遺跡)は上田市立信濃国分寺資料館で見学できる。

★上田市立信濃国分寺資料館:長野県上田市国分1125

「辛犬は加羅の犬養の略称」であるという。そうなるとここにいう犬甘郷は、さきにみた「修那羅峠の起源」ともすんなり結びつくことになるが、私も『日本書記』天武4年条にある「曾禰連韓犬(そねのむらじからいぬ)」などの存在からして、辛犬郷の辛も韓(から)、すなわち加羅(加耶)からきたものではなかったかと思う。

『日本の中の朝鮮文化7』、金達寿、175p

 

 

◆ いまの松本市とその周辺は、みんな辛犬郷だったところである。177p

◆ 桜ヶ丘古墳出土の金銅製天冠は、その辛犬郷にいた辛犬甘氏の一族のものであったろう。177

古墳は5世紀後半に築造された円墳であることが判明しました。

出土品には、武具類の三角板革綴衝角付胄 (さんかくいたかわとじしょうかくつきかぶと)1点、革綴頸甲(かわとじあかべよろい)1点、長方板革綴短甲(ちょうほういたかわとじたんこう)1点からなる甲胄(かっちゅう)一式があります。鉄製の甲冑は中期古墳の副葬品の代表ですが、大部分は鉄板を鋲で留めた鋲留めの甲冑であり、本例のように皮の紐で綴じられているものは全国的にも数が少なく、県内では1、2例しか知られていない希少なものです。
武器類は、剣5点、直刀1点、矛(ほこ)1点、鏃(やじり)5点が出土しています。

 

 

 

★桜ヶ丘古墳:長野県松本市浅間温泉(大字)1303

★松本市立考古博物館:松本市中山3738-1

◆ 松本市街地北西に、豪族犬甘(いぬかい)氏の犬甘城跡のある城山公園の丘陵が広がる。177p

★城山公園:長野県松本市蟻ケ崎(大字)1139

◆ 犬甘氏(辛犬甘氏と同じ)はその後土着の国衙(こくが)の要人として勢を張り、村井氏を南に、細萱(ほそがや、ほそかや)氏を北に、その他多くの分系により、…信州における有力な氏人として栄えるに至った。178p

 

 

根親王家古墳:東信濃に見られる方墳の最たるもの(52メートル)であり、高句麗系と思われる。『信州の韓来文化』、今井泰男、4p

埴輪片も多数発見されており、それらは、5世紀前半のものと考えられています。埴輪以外の出土品は全く知られていないので、古墳の築造年代は埴輪の様子から、5世紀前半と想定されています。
近くに右近塚古墳・刀塚古墳などがありましたが、右近塚古墳は国道開設時、刀塚古墳は住宅の建設時に破壊されました。

★中曽根親王家古墳:長野県東御市和丸山1104

 

◆ 犬飼(いぬかい)神社:犬飼は扶餘系四加の族名、狗加族で百済、高句麗系。15p

建御名方富神、高比賣神

 

大国主神が多紀理毘売命を娶って生んだ神で、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)の同母妹。別名を下光比売命(下照比売)という。「高比売命」の名で、天若日子を弔いにきた阿遅鉏高日子根神が、天若日子の父とその妻子に死人(天若日子)と見違えられたことに怒り飛び去る際に、兄の阿遅鉏高日子根神の名を明かす歌を詠んだ。本文に、この歌は夷振であるとある。
諸説
 高比売命は、兄の阿遅鉏高日子根神の「高日子根」に対する名とされる。また、阿遅鉏高日子根神は迦毛大御神でもあり、葛城の土地神(鴨の神)の妹となる。そのため、「高日子根」に対する高比売の名は葛城の鴨の神に近い名とされる。なお、阿遅鉏高日子根神が大国主神の子として神統譜に取り込まれた過程で、妹の高比売命も同様に大国主神の娘としての位置づけられたのではないかともいわれている。このほか、天若日子神話では阿遅鉏高日子根神の位置づけを語るために登場していると捉える説もある。
 天若日子神話では、基本的に下照比売の名であるが、歌を詠む際には高比売命と記されている。このことについて、高比売命の歌は明朗な雰囲気の漂う歌であり、夫の天若日子を喪って哭いていたはずの下照比売のままではそのような歌を詠ませる事が出来ないため、名を改めたという説がある。同時に、名を改めたことは、新たな存在になることを意味するともいわれる。また、高比売命(下照比売)が阿遅鉏高日子根神の名を歌うことは、重大な霊魂更新の祭儀に聖なる女性が関与していたことに対応するという説もある。なお、中世頃まで時代が降ると、下照比売が詠んだ歌の「弟棚機」という詞章を七夕二星と結びつける例(文献)が多く、中世の知識階層の人々にとっては、天若日子・下照比売とその歌が一つの連関の中で捉えられ、下照比売を織女星と結びつける場合が多いという。
 その他、「下光比売命」の項も参照。

★犬飼(いぬかい)神社:長野県飯山市端穂571

◆ 村上村(現在の埴科郡坂城町のうち千曲川以西の区域):賜姓村上氏活躍の地で、前部とは高句麗、百済の役名を指す。28p

★村上神社:長野県埴科郡坂城町上五明112

本社祭神名 建御名方命(たけみなかたのみこと)
八坂刀賣命(やさかとめのみこと)
天思兼命(あめのおもいかねのみこと)
大日孁命(おおひるめのみこと)
大己貴命(おおなむちのみこと)
日本武命(やまとたけるのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)
 

 

 

◆ 更埴(こうしょく)市には新羅・加耶系渡来の秦氏族による治田(はるた:秦)神社があり、東筑摩郡波田(はた)町には波田神社がある。『日本の中の朝鮮文化7』、金達寿、145p

 

治田神社の御祭神は治田大神こと彦座命(ひこいますのみこと)崇神天皇の御世に四道将軍の一人として丹波道を平定された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の御子であられる。

 

★治田(はるた)神社:長野県千曲市大字稲荷山1650-1

★波多(はた)神社:長野県松本市波田上波田字青木原4751

治田神社は古に秦(はた)神社と称したそうだ。

 

◆ 穂高神社の祭祀氏族の安曇氏は、厳密には安曇犬養氏(後に辛犬養氏)であり、単なる海人でなく、牧畜・狩猟にかかわる山人的氏族である。『信濃古代史考』、大和岩雄、278p

★穂高神社:長野県安曇野市穂高6079

穂高見命を御祭神に仰ぐ穗髙神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にあります。そして奥宮は穂高連峰の麓の上高地に祀られており、嶺宮は北アルプスの主峰奥穂高岳に祀られています。穂高見命は海神(わたつみ)族の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)である安曇族は北九州方面に栄え主として海運を司り、早くより大陸方面と交流し文化の高い氏族であったようです。醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に選定された延喜式神名帳には名神大社に列せられ古くより信濃における大社として朝廷の崇敬篤く、殖産興業の神と崇められ信濃の国の開発に大功を立てたと伝えられています。

◆ 妙見神社(津金寺妙見堂:長野県北佐久郡立科町山部279-1):妙見は、北斗七星信仰で、百済の大内氏(山口県防府)がもたらしたものといわれている。『信州の韓来文化』、今井泰男、48p

 

鞘堂(さやどう)の中にある本殿は、側面から見ると屋根が「へ」の字の形をしています。この形式を流れ造りといい、本殿では最も多い形式です。この正面に湾曲した軒唐破風(のきからはふ)という屋根を付けたり、建物の至る所に彫刻が施されており、江戸後期の特色がよく表れています。

この建物は、天保7年(1836年)に、立川流(たてかわりゅう)二代目・和四郎富昌(わしろうとみまさ)と地元茂田井(もたい)の田中円蔵(えんぞう)によって建てられました。立川富昌は諏訪(すわ)大社上社本宮(かみしゃほんみや)拝殿・弊殿(へいでん)(重要文化財)など長野県内外に多くの作品を残した諏訪の名工でした。

 

★妙見神社(津金寺妙見堂):長野県北佐久郡立科町山部279-1

◆ 善光寺も、もと百済寺といわれた位、百済文化との関係も深い。しかも、この地方には、横穴式石室で天井が合掌形の屋根型を示すものが見られる。長野県埴科郡豊栄村(今日の松代町)の空塚古墳、上高井郡日野村大字新野(今日の中野市)の金鎧山古墳をはじめ、いくつかの例が指摘されるのである。この形式は、日本の古墳でも特殊なものであるが、朝鮮においては、韓国の忠清南道公州邑錦町に存する古墳などのように、百済で発達した一形式ということができる。『日本古墳の研究』、斎藤忠、255p

信州善光寺は
一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として
創建以来約千四百年の長きに亘り
阿弥陀如来様との結縁の場として
民衆の心の拠り所として深く広い信仰を
得ております

…………………

★ 製鉄技術を持った伽耶の人々は長野県の北から南へ広がったことが分かる。

 

 

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東日本初「三韓土器」、長野北部の根塚遺跡で出土 朝鮮半島と交流?

遠藤和希

長野県北部の木島平村にある根塚遺跡で、日本の弥生時代に朝鮮半島南部で作られた土器片が見つかったことが明らかになった。同遺跡は1996年に、弥生時代に朝鮮半島で作られたとみられる渦巻き状装飾つき鉄剣が発見されていた。今回の土器片の発見で、弥生時代における北信地域と朝鮮半島の交流について研究が進む可能性があると村はみている。

 

 村が20日に記者会見し、発表した。村教育委員会などによると、紀元前1世紀~紀元後3世紀に朝鮮半島南部でできた土器は「三韓土器」と呼ばれ、これまで九州~近畿の遺跡で見つかっていた。東日本で見つかったのは初めてという。

 今回の発見は、1996年~2000年に根塚遺跡から出土した数千点に上る資料の再調査がきっかけだった。村が当時の手付かずだった資料を昨年4月から調べていた。

 当初、村は、土器片は平安時代のものともみていたが、各地の研究者らに調査協力を依頼し、現地でも調べてもらった。すると、約2~5センチ四方の9点のつぼなどの土器片が、形状や土の質、焼き上がりから三韓土器だとわかったという。

 20日の記者会見には、調査に協力した福岡大の武末純一・名誉教授もオンラインで参加。武末さんは「(三韓土器は)これまでは海に接したところで見つかってきた。(根塚遺跡は)内陸だからと半信半疑だったが、実際見て驚いた。朝鮮半島からの文化伝来を研究する上で貴重な資料だ」と話した。木島平村は、日本海に面した新潟県上越市までは40キロ余りで、1日あれば歩ける距離にある。武末さんは「北に行けば海もある。新潟に結節点があったのかもしれない」と分析した。

 日台正博村長は「卑弥呼の時代、東日本のこの北信地域がアジアに接していたことは夢が広がる」と話し、今後の研究の進展に期待を寄せた。

 出土した土器片は21日~来年3月31日に、同村のふるさと資料館で展示される。入場無料。開館時間は午前9時~午後4時半で、休館日は月曜日と祝日、今月29日~1月3日。問い合わせは同館(0269・82・2041)へ。(遠藤和希)

 

 

 

そして秦氏は信濃国の中で庶流を広げたが、平安時代末期に嫡流の秦能俊(はたのよしとし)が保元の乱に破れて四国土佐へ落ち延び、長宗我部(ちょうそかべ)の苗字を名乗ったのが長宗我部家の起こりである。

 

2023年土佐の旅(土佐神社) 

秦氏は信濃国の中で庶流を広げたが、平安時代末期に嫡流の秦能俊(はたのよしとし)が保元の乱に破れて四国土佐へ落ち延び、

長宗我部(ちょうそかべ)の苗字を名乗ったのが長宗我部家の起こりである。

 

神武天皇の御世、

元々伊勢の地に土着していた国津神・伊勢津彦(いせつひこ)

神武天皇の配下・天日別命(あめのひわけのみこと)による軍事的圧力に屈し、

国譲りをして八風を起こして海水を吹き、波浪に乗って東方へ去ったという。

 

 

その後、伊勢津彦は信濃へ逃れて土着したといわれている。

伊勢津彦を御祭神として祀るのは全国で唯一、長野県長野市風間の風間神社のみだという。

長野県長野市風間にある神社

860年貞観2年)「飄別神に叙位」との記述がある。979年天元2年)には諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣され風間姓を名乗り、これが各地の風間氏の発祥となっている

 

2023年土佐の旅(土佐神社)