【黎明期、前編 の続き】
“標準色”が量産配置されても、暫く1号機は“ぶどう色”のままで旅客列車の牽引運用に就いていたりした。常磐線経由の急行“みちのく”では、仙台~青森間での牽引運用。零時1分発の青函連絡船へ接続する、重要な列車↓。

そんな試運転を重ねていって、要求してた高出力とディーゼル動力自体の信頼性(←DF50の性能に対してのトラウマで、当初は懐疑的だった)を得て、昭和30年代末期にDD51は量産配置へ入る。
その中でも長距離区間走行の高需要旅客列車を運行してる機関区への配置を優先として、DF50の方は中需要程度の線区へ転配、請願という名の“おどし”もあった関係で吹田第1機関区へは蒸機からの置き換えが早々に始められた。
DD51牽引の寝台特急“あかつき”。西鹿児島→鳥栖の運用は、こんな感じ。運転開始時点で交流電化開業の時期は決まってたので、5年の運用だった↓。

DD51の操作性は蒸気機関車と比較すると快適過ぎて、蒸機からの転換試験を受けた機関士からは「これで(蒸機運転と)同じ給料貰うなんて、詐欺だ」と言わしめたほどだったらしい。…長距離列車運転で苦労したのは、運転時の車内温度とスタフ閉塞式区間起終点駅の通過でのタブレットキャッチャーが絡む作業ぐらいだろーと。
貨物列車としての運用は、こんな感じ↓。

“標準色”が量産配置されても、暫く1号機は“ぶどう色”のままで旅客列車の牽引運用に就いていたりした。常磐線経由の急行“みちのく”では、仙台~青森間での牽引運用。零時1分発の青函連絡船へ接続する、重要な列車↓。

そんな試運転を重ねていって、要求してた高出力とディーゼル動力自体の信頼性(←DF50の性能に対してのトラウマで、当初は懐疑的だった)を得て、昭和30年代末期にDD51は量産配置へ入る。
その中でも長距離区間走行の高需要旅客列車を運行してる機関区への配置を優先として、DF50の方は中需要程度の線区へ転配、請願という名の“おどし”もあった関係で吹田第1機関区へは蒸機からの置き換えが早々に始められた。
DD51牽引の寝台特急“あかつき”。西鹿児島→鳥栖の運用は、こんな感じ。運転開始時点で交流電化開業の時期は決まってたので、5年の運用だった↓。

DD51の操作性は蒸気機関車と比較すると快適過ぎて、蒸機からの転換試験を受けた機関士からは「これで(蒸機運転と)同じ給料貰うなんて、詐欺だ」と言わしめたほどだったらしい。…長距離列車運転で苦労したのは、運転時の車内温度とスタフ閉塞式区間起終点駅の通過でのタブレットキャッチャーが絡む作業ぐらいだろーと。
貨物列車としての運用は、こんな感じ↓。
