BトレのDD51が発売された事でネタが成立した。その1つが寝台特急“日本海”の新設当時。てなわけで、その下り列車をユルユルと再現してみよーと。


1968年10月1日。国鉄ダイヤ全面大改正が行われ、大阪~米原間と米原~金沢間は軌道強化されて表定速度は向上。北陸本線が中軸となる『日本海縦貫線(※当時、湖西線は存在していない)』として時間短縮が成された。
一方で、大阪~青森間に寝台特急“日本海”が新設。既設の急行“日本海”は“きたぐに”と改称。日本海縦貫線優等夜行列車のベースを形成した。

こんな背景で、寝台特急“日本海”登場。20系寝台客車9両編成(旅客扱いは8両)でスタート。乗車率が良かったので、一年後の改正で13両編成(同・12両)へ増強されていた。ただ、A寝台はルーメット式(個室寝台)では無く、プルマン式(開放寝台)。

大阪~米原間での牽引機関車は、EF65 500番台だった↓。

ひったー『青春舞踊』-“日本海”新設当時、大阪→米原.jpg





米原駅敷地内は来たるべき北陸本線の全線交流電化に向けての変圧装置施設建設も伴う、十数年を跨いでる大規模工事(※東海道本線の全線電化による機関区新設→東海道新幹線の敷設→東海道本線の線路配置替え→用地を空けてコレ)の真っ只中。最終工事箇所である米原駅の交流電化工事までは進行してなく、2駅先の田村までを『苦肉の策の』非電化とし(※デッドセクション扱いw)、既に工事を終えていた田村~糸魚川間を交流電化させていた。
糸魚川~青森間はDD51が牽引機。当時、糸魚川から北は非電化区間。電気技術と政治的な(?)問題があったから。
この画像でフル編成を組成したのが分かるかなーと↓。

ひったー『青春舞踊』-寝台特急“日本海”、新設時フル編成.jpg





DD51は寒冷地仕様。運転台窓は通常ワイパーではなく、旋回窓↓。

ひったー『青春舞踊』-寝台特急“日本海”、DD51牽引.jpg





当時はスタフ閉塞方式を採用してる区間があったのに加えて定時運行が重視されていて、タブレットの投擲及び受領対策として(※閉塞区間通行終了時、走行中に専用ポールへ投げてた)タブレットキャッチャー保護板が装備されていた↓。

ひったー『青春舞踊』-DD51、タブレットキャッチャー側.jpg