レッスン139
I will accept Atonement for myself.
わたしは
自分自身のためにアトーンメント(和解)を受け入れます。
まず、練習の目的をクリアーにします。
今日こそ、アトーンメントを受け入れてください。
現実を変えるのではなく
ただ自分自身についての真実を受け入れ
終わりのない神の愛の中で
喜んで自分の道を進んでください。
わたしたちに求められているのはこれだけです。
わたしたちは今日、これだけをするのです。
(段落10)
*アトーンメントを受け入れること
つまり
*自分自身についての真実を受け入れること
*神にはひとりの子がいるだけなので
自分についての真実は神の創造した全てのもの(サンシップ)
と分かち合われている、ということを受け入れること
そして
*安心して喜びの中で自分の道を歩むこと
さぁ練習です!
朝と夜それぞれ5分の練習時間を持ちます。
まず
わたしは
自分自身のためにアトーンメント(和解)を受け入れます。
わたしは、神に創造されたままのわたしだからです。
と、自分たちの使命を復習することから始めましょう。
わたしたちは
神がご自身と同質のものとして
わたしたちを創造された時に与えられた知識を失っていません。
わたしたちは
それをみんなのために思い出すことができます。
というのも
創造の中ではすべては一つだからです。
わたしたちの記憶の中には
*兄弟たちが本当はどれほど愛おしい存在であるか
*それぞれの心がどれほど自分たちにとって
欠くことのできない部分であるか
*兄弟たちは実際どれほど誠実であったか
*父なる神の愛がどのように全ての兄弟たちを包み込んでいるのか
という思い出があります。
(段落11)
肉体に関わるあらゆる思い
自分を小さきものに留めようとしている思い
を脇に置いて
心の奥に今も留まっている
神に与えられた知識に
たどり着こうとしましょう。
1日を通して1時間に1回
創造されたすべてのものに感謝し
その創造主の名と
創造されたすべての側面と一つであるものの名において
自分たちの気持ちを
聖なる目標からそらすようなすべての思いを脇に置いて
自分たちが信じることを献身的に繰り返します。
5〜6分かけて
この世界が聖なる神の子の周りに張り巡らせている
蜘蛛の巣のような愚かな妄想のすべてを
自分の心から一掃してください。
わたしは
自分自身のためにアトーンメント(和解)を受け入れます。
わたしは、神に創造されたままのわたしだからです。
と唱えながら
あなた自身の知識を
あなたに自覚させないようにしているかに思える鎖が
どんなに脆いかを学んでください。
(段落12)
✼✫✳︎✶❅✦✳︎✱
レッスン138では
天国を選ぶ決心をしました。
もう一つの選択肢は地獄ですが、それは幻想だと習いました。
このレッスンでは
アトーンメント(分離は起こっていない)を選びます。
アトーンメントは選択肢の一つであり
もう一つ、対極にある選択肢は
分離は起こったというアイデアです。
ということは
アトーンメントを受け入れるとは
自分のアイデンティティとして
神と分離した個体のわたしではなく
神のひとり子・キリストを選ぶということです。
そして
神のひとり子、キリストを受け入れるということは
「わたしだけのごと」ではなく
「みんなのこと」でもあるのです。
さぁ、迷うことなく安心して歩むために
ゆっくり受け止めていきましょう。
ここで選択は終わります。
ここでわたしたちは
神に創造されたままの自分たちを受け入れる
決心をするからです。
それに選択とは
*わたしたちとは何者なのか
ということについての確信のなさ以外の何だというのでしょう?
*どんな疑いもここに端を発しています。
*どんな問いかけもこれを反映しています。
*どんな葛藤も「わたしとは何なのか?」というただ一つの
シンプルな質問を必ず伴っているのです。
(段落1)
今、不安なこと、心配していること
迷っていることがあるなら
自分のことをどのような存在だと思っているのか
じっくり見てみてください。
でも
*自分自身を認識することを拒絶した者にしか
このような質問はできないのではありませんか?
*自分自身を受け入れることを拒むことだけが
この質問を誠実なものに思わせます。
*生命あるものが確かに知ることができる唯一のことは
自分とは何かということです。
*この確実である一つの見地から
他の物事も自分と同じように確かなものと見るのです。
(段落2)
わたしたちが知ることができること
確信できる唯一のこととは
自分とは何か📌
これだけであり
これさえ確信できれば
すべての物事に確信が持てるのです!
わたしは、神が創造されたままのわたしです。
これが
あらゆる質問の応えであり
あらゆる悩みや葛藤の解決法であり
すべての病の治療薬
どうでしょう?
*自分が何であるかについての不確かさとは
途方もない自己欺瞞であり
その規模は想像できる範囲を超えています。
*生きていながら自分自身を知らないということは
自分は本当は死んでいると信じていることなのです。
*生命とはあなた自身であること以外の何だというのでしょう?
*あなた以外の何が
あなたの代わりに生きられるというのでしょう?
*疑っているのは誰でしょう?
*その人は何を疑っているのでしょう?
*その人は誰に質問しているのでしょう?
*誰がその人に応えてくれるのでしょう?
(段落3)
さぁ、自分に尋ねましょう!
*疑い、不満を抱いている「わたし」とは誰?どんな存在?
*この「わたし」が質問する相手は誰?どんな存在?
*誰から、どんな存在から
「わたし」は応えをもらおうとしているの?
その人は
*自分は自分自身ではないと述べているだけです。
したがって
*何か他のものとなり
*その何かとは何なのかと尋ねる人になっています。
けれども
*その人がその答えを知らないとしたら
決して生きてはいられません。
*もしその人がまるで答えを知らないかのように尋ねるとしたら
それはその人が
*本来の自分ではいたくないということを示しているにすぎません。
*その人は生きているので
本来の自分を受け入れています。
それでも
*その答えに逆らった判断を下し
*その真価を否定し
*生きる拠り所となるただ一つの確かなものを
知らないことに決めたのです。
(段落4)
さらにゆっくり受け止めていきましょう。
こうしてその人は
*自分の生命について確信を持てなくなります。
*自分の生命を自分で否定したからです。
*あなたにアトーンメントが必要なのは
この否定のためです。
*あなたが否定しても
あなたがなんであるかを変えることはありません。
*でもあなたは自分の心を
真実を知っている部分と知らない部分とに
分割しました。
*あなたはあなた自身です。
*このことに疑いの余地はありません。
それなのに
*あなたは疑っています。
とはいえあなたは
*自分の中のどの部分が
自分自身を本当に疑うことができるのか
と尋ねようとはしません。
実際にあなたの一部であるものが
このような質問をすることなどあり得ません。
というのも
答えを知っている部分に尋ねているのですから。
尋ねる部分があなたの一部だとしたら
確信をもつことは不可能になります。
(段落5)
心の中に
疑っている部分と
疑いの余地などない、確信している部分があるとしたら
*この対極にある二つの部分が
コミュニケーションを取るのでしょうか?
*疑いそのものであるエゴが確信のみのホーリースピリットに
尋ねるのでしょうか?
*エゴがホーリースピリットの応えを受け入れるのでしょうか?
アトーンメントは
*自分自身を疑うことや
自分の本当の姿に確信をもてないことは可能だ
という奇妙なアイデアを正します。
このアイデアは狂気の極みです。
それでも
これはこの世界では一般的な質問です。
この世界は狂っているということ以外
こんなことに何か意味があるでしょうか?
この世界で一般的なことは真実だ
という悲しい信念の中で
なぜその狂気を分かち合うのでしょうか?
(段落6)
わたしたちはずっと
幻想であるこの世界のどこかに真実がある
と思ってきたのですね。
この世界の中で尋ねられる質問はすべて
単なるものの見方ににすぎず
質問が尋ねられているのではありません。
憎しみの中で尋ねられる質問は応えられようがありません。
なぜなら
その質問自体が応えだからです。
二重になった質問は尋ねながら応えているので
どちらも同じことを異なった形で証言しています。
この世界は一つの質問をするだけです。
*これらの幻想の中で、一体どれが真実なのだろう?
*どの幻想が、安らぎを確立し、喜びを差し出してくれるだろう?
*この世界を作り上げたあらゆる痛みからの解放を
差し出してくれるのは、どの幻想だろう?
(テキスト・第27章・第4節・段落4)
愛することも憎むこともできる世界の中には
選択肢などありません。
どんな形も
安らぎ、喜び、痛みからの解放を保証してくれるものはありません。
分からないから尋ねているつもりでも
自分ですでに応えを用意しています。
質問に応え(選択肢)が含まれているなら
それは質問ではありません!
同意を要求しているだけですね📌
この世界が信じていることは
何一つ真実ではありません。
この世界の目的は
*自分自身を知らないと主張する者たちが
自分たちとは何なんだろう
と尋ねに来ることができる住み処となることです。
その人たちは
*アトーンメントを受け入れ
*自分自身いついて疑うことや
自分の本当の姿を自覚しないでいることは不可能だ
ということを学ぶまで繰り返し戻って来るでしょう。
(段落7)
あなたがなんなのかは確かなことなので
あなたに求められているのはそれを受け入れることだけです。
あなたがなんなのかは
*聖なる神の心とあなた自身の心の中に
永遠に定められています。
*あらゆる疑いや質問をはるかに超えています。
ですから
あなたが自分のあるべき姿を尋ねるということは
あなたは
知らないはずのないことを知らない
という矛盾を信じている
ということを十分証明しています。
自分とはなんのか、というのは質問なのでしょうか?
それとも
そう述べることで自らを否定するという声明なのでしょうか?
わたしたちの聖なる心を
このような意味のない思いに占領させないようにしましょう。
(段落8)
最後に。。。しっかりと心に留めてください📌
わたしたちにはここで果たすべき使命があります。
わたしたちは
かつて信じていた狂気をさらに強めるために
ここに来たのではありません。
自分たちが受け入れたゴールを忘れないようにしましょう。
*わたしたちは、ただ自分たちの幸せを得るためだけに
来たのではありません。
*本来の自分の姿としてわたしたちが受け入れるものは
自分たちとともに
全ての人たちの姿もそうだという宣言になります。
*あなたの兄弟を見捨てないでください。
さもないと
*あなたはあなた自身を見捨てることになります。
*兄弟たちを愛も込めて見つめてください。
そうすれば
*その人たちは自分たちがあなたの一部であり
あなたもその人たちの一部であることを
分かるようになるでしょう。
(段落9)
✼✫✳︎✶❅✵✳︎
練習の目的と仕方を確認し
わたしは
自分自身のためにアトーンメント(和解)を受け入れます。
わたしは、神に創造されたままのわたしだからです。
と何度か唱え目を閉じました。
痛みに苦しむことはあり得ない。。。
奪われることはあり得ない。。。
思いという濃い霧の中を
片手をイエスに取ってもらい
もう片手は気になっていた〇〇さんの手を取りながら
進んでいるようでした。
大丈夫、絶対大丈夫
イエスと手を繋いでいるのだから。。。
手の感覚というより
うちから溢れる大丈夫という感覚に包まれていました。