桜の開花と年度末に思うこと | 自死遺族の私が感じたこと日々あれこれ~誰ひとり取り残さない社会へ~

桜の開花と年度末に思うこと

今日は3月31日。年度末だ。

春とは思えないほど、とても暑い日だった。


今年度もみなさんの応援と支えもあり、無事活動を継続する事ができた。ほっとしている。


そして、明日からは4月1日。新年度を迎える。

活動はもちろん継続しつつだが、これからは少しずつ、人生を自分を中心に考えていこうと思う。


活動はもちろん大切だし、微力ながらだがまだまだやるべき事は沢山あると思っている。


しかし今までは自分の行動が無意識にだが、活動中心だった。だってそれだけ私にとって大切なものだったから。


自分、イコール、NPOだった。


活動をスタートしてから、お金もない、人脈も無い、学歴もない。ないないずくしから、とにかく社会から信頼してもらえるようにとNPOを設立した。色んな方の助けを借りながら設立から登記から何から全て自分でやった。


最初はとにかく何でも初めてな事でワクワクした。沢山の貴重な経験をする事が出来、沢山の出会いがあった。しかし、同時に大きな壁にもぶつかった。


一時期は活動なんてもういいや…と思った時期もあった。正直、自分の未熟さに直面して自分自身のダメさ、不甲斐なさに本当に嫌になった。社会に物申す、なんてそんな大層な事言える人間でもない自分。そんな自分がほとほと嫌になった。目標が分からなくなった。


あんなにやる気があったのに、燃え尽きてしまった。お金のためだが活動とは関係ない会社に行き、今もありがたいことにずっと働かせて頂いている。仕事が出来ない私だが、ここでも助けて頂きみなさんに感謝している。


職場では「自死遺族の田口さん」ではない。ただの「田口まゆ」だ。それはそれでまた新たな顔の自分の発見だった。ずっと自死遺族で生きてきた自分にとっては新鮮だった。


活動ももう、辞めようと思っていた。が、そう思ったら、なんだかそれはそれで、ぽっかり穴が空いた気持ちになった。活動をとったら、私に一体何が残るのか。私には何も無いじゃないかと。


社会から見ると私一人が活動しなくなっても何の支障も影響もない。自死遺族として活動してる人なんて沢山いるし、むしろもっと大きな影響力を持っている団体や方々は沢山いる。


でも、社会からするとちっぽけなこのNPOも私にとっては「父」のような存在であった。亡くなった父の代わりのように私を守ってくれていた。大きな社会からすると私の父なんて、悲しいけど、いなくなっても影響なんてほとんどないに等しい。


社会から見ると父の死は統計上の数字の自死者の「1」でしかない。でも、その1人でも、私にとってはとても大きな大きな存在でかけがえのないたった一人の父である。


私の人生を、未来をいつも邪魔してきた父の自死。

でも守ってもくれた父。


そんな完全に個人的な想いしかないNPO法人セレニティを助けて応援してくださっているみなさんには感謝しかない。


もちろん今後もNPOを継続する。

遅いかもだけど、最近ふと「あれ?私の人生とは?」と立ち止まる。少しずつ自分の心境の変化にも気がつく。


寂しさや不安、怖さが無い訳じゃない。

そして、すぐに何かが大きく変わる訳じゃないけど。


私は私。

父は父。

当たり前だが違う人間なのだ。


桜の開花宣言がやっと出た。

毎年あの狂い咲く桜が美しくもぞくっとする狂気をおびていてとても好きなのだ。


満開はまだ少し先だけど。