産みの親は、あなたを思って手放した。と説明され、手放す=愛情という認識になったとして、では、日常生活の中で抱きしめられたり、大切にされたりする愛情との違いに子どもは混乱を感じないだろうか…という問い

産みの親の手放すという行為に「愛」があったかは誰にも証明できない事なのに「愛」を都合よく使っていないだろうか…

〝産みの親が手放して、今ここにいる自分〟
その事実を子どもがどう捉えるかの自由を阻まないだろうか?
手放さざる理由があったのだろうという事は大人になれば善悪ではなく理解することもある。理由すら知りたくない人もいるかもしれない。

手放すことを「愛」と説明されて、もし子どもが産みの親に会いたいと思った時、「愛」があって手放されたはずなのに、会いたいと望んだ時に拒否されたら、「愛」という説明は矛盾をうむリスクを感じる。

手放された理由を養親が、そこに「愛」があったと説明する前提条件には、仲介した支援者が産みの親へあなたの行為は「愛」であるという認識を共有しなければならないし、その延長線上に子どもが会いに来る可能性をきちんと説明しておく必要があると思うが、支援者は、一律に、それをしているだろうか…

育てる養親には「愛」がある(はず)。だから、産みの親が手放した理由に「愛」という付加価値をつけずに、養親が〝あなたを育てたかった〟とシンプルな「愛」を言葉と態度で、伝え続ける方が嘘がない様に思う。私は。


ぜひコメントやご感想をお待ちしていますニコニコ