自分は現実主義者だと思ってたけど、
もっと夢のある現実を見てもいいのかもしれない。
現実は厳しい、というのは、
現実の一面しか見てないだけかも。
現実は時に素晴らしく夢のあることが起きる。
それもまた真実。
素晴らしい現実に尻込みしてチャンスを逃すのは現実主義じゃない。
現実の厳しい面も素晴らしい面も等しく信じる勇気を持ちたい。
自分はずっと強くなりたいと思ってきて、
いっぱい傷付いていっぱい転んで
少しは強く賢くなったつもりでいたけど、
傷付くのをわかっていて、
傷付く事に何度も飛び込んでいったあの頃の私の方が
本当は強かったんじゃないかって、今日初めて思った。
自分は一体何を手に入れて、何を失ってきたんだろう?
あの勇気は、
馬鹿で無謀だったと今の自分は反省しかしてなかったけど、
今の自分が安全なところにいて昔の私を哂って何になるだろう?
弱くて、強くなりたくて、
傷付きやすいくせに傷付くのを怖れられなくて、
自分の全てで恋をして、何度も何度も数え切れないほど泣いて、
あの自分の勇気が今の私の幸せを支えているのに、
私は昔の自分に感謝すらしてなかった。
昔の自分の気持ちを思い出すのが怖くて、
昔の自分の好きだった音楽すらいつしか封印してた。
臆病になったのは今の私の方じゃないのか。
言い訳ばっかりして、自分の心と向き合うことから逃げて、
気持ちが揺れないことを強さと勘違いなんかして、
恥ずかしくないか。
思い出せ、自分が何者か。
心で生きる、それが私だろう。
嬉しいことにも全力で喜べない、
悲しいことにも全力で泣けない、
そんなので自分らしく生きたって言えるか?
今からでも遅くない、もう一度、全力で泣く自分を思い出そう。
全力で泣いて、そこから何度も立ち上がる、
それこそが私だ。
何をしたって何を選んだって後悔はするものだ。
それでいい。
何度も後悔して、それを力にして、もっと前に進みたいって必ず思えるから。
小さなことを深く受け止める。
そこに私の強さがある。
私は、私のままでいい。
これ以上強くならなきゃなんて思わなくていい。
今の、今までの全ての自分を、そのまま愛そう。
そこからまた新しく何かが始まる。
そこからきっと希望が生まれて、新しい出逢いに心を開いていける。
自分を堅く守っていた殻から、私も卒業しよう。


ちなみに、本日のBGMは小田和正の『個人主義』でした。

自分の心ときちんと向き合って、
それを言葉にするためにこのブログを続けてきたはずだけど、
最近何だかちゃんとできてない。

見えない相手に気を使ったり媚びを売ったり強がってみたり…。


ちょっと違うんじゃないか?私。

IT断食、ちょっとしてみようかな。
録画久し振りに見た。

すごい。

舞台はもちろん生で見るのが一番だけど、
画面を通してでも
舞台で討死する気なんじゃないかと思うくらいの気迫が伝わってきて泣きそうになった。
こないだ見た天海祐希のミーマイもそうだけど、
この頃の宝塚を見ると、
メンバーがみんなびっくりするくらい志気が高くて、
舞台で本当に燃え尽きるくらいの覚悟を持って演じている気がする。

一路さんの鬼気迫る演技が素晴らしいのはもちろんだけど、
カンパニー全体の歌唱力が圧倒的。

ふさちゃんは今冷静に見ると大して上手くはないけど(ふさちゃん好きじゃないなので辛口でごめん)、
作品を壊すほどでもないかな…。

正直水夏希主演の時の白羽ゆりの方が歌にしっかり感情が乗ってて全然上手かったと思う。

でも作品全体として見て、
主役が一人上手いよりも
カンパニー全体の実力がものを言うミュージカルなのは
改めて見て思ったので…
次回花組公演のエリザベート、
蘭寿さんの育てた花組の底力なら、
蘭はなちゃんの壊滅的なエリザベートを何とか見られるものに出来ちゃう?
…といいなぁ。

ちょっと重たい仕事が入って、
一昨日から今日まで子育ての合間を縫って頑張ってたんだけど、

正直、めちゃくちゃ楽しかった!!!

自分が普段使ってない思考回路だったので、
頭のサビをゴリゴリ落とすような感じもあったけど、
火を噴きそうなくらいフルスロットルで頭使うのって、
快感すぎる!

とりあえず一段落したんだけど、
終わった達成感とかよりも、
頑張ってる時の充実感の余韻に浸ってる感じ?
もっとやりたくてしょうがない!

次の仕事につながるといいなぁ!


そして一つ思ったのは、
頭を限界まで振り絞って頑張るのってめちゃくちゃ楽しいよ!
って、
いつか子ども達にも伝えたい。

「勉強を好きになる」とかってすごく曖昧だけど、
「頭を使うと快感がある」っていう科学的事実なら
教えられるんじゃないかな?
ていうか、私の姿を見て、面白そう!って思ってくれたら最高だな。
やっぱりもっと色々頑張ろ\(^-^)/!

先日久し振りに大学に行った時のこと。

基本的に集まるのは現役とOBの学者さんとかなんだけど、
学者さんとのトークにやや付いていけなかった私。
何が原因かと考えると、
相手の使う固有名詞の多さが一因かな、と思った。


固有名詞っていうのは、
お互いがその人や物についてしっかりと知っていないと
会話が成立しない。
だから普段の会話や文章でわかりやすくしようと思うと
必然的に固有名詞を避けるか、
使うとしても説明を入れるものだと思う。

がっ、似たような研究ジャンルの人間同士だと、
このくらいの固有名詞は知ってて当然だよね、
知らないヤツはバカだよね、
くらいのノリで会話が進んでいくので、
「ごめん、わかんない」とか言いづらい。
しかも、自分が普段の会話で無意識に使う導入部、
本題に持っていく前に喋る軽いマクラのような段階を踏まずに
いきなり本題について話す人が多くて、
自分はマクラでしどろもどろしているうちに肝腎の本題について話しそびれてしまった。

世の中には色んな人がいるけど、
それぞれの属しているソサエティによって
コミュニケーションの仕方がこんなにも違うんだ、というのが
私にとっては結構衝撃だった。


そして、わからないことをものすごいマイペースで解き明かしていく過程が好きな私は、
何もかも知ってるのが前提の学者の会話をするには向いてないな、と思った。
私の思う教育は「人が育つのをじっと待つこと」なんだけど、
大学は人を待つところじゃなくて急き立てるところなんだな、
大学の教育っていうのは私の思う教育と質が全く違うんだな、とも感じた。

大学にいた頃も、自分は場違いな人間のような気がしていたけれど、
卒業してちょっとはマシな人間になったつもりで戻ってみても、
やっぱり私は場違いなままだった。
私はあの頃と同じただの間抜けで何も進歩していない、そんな気がした。
今の自信を持ってるはずの自分が嘘みたいに感じた。


「その人がどんな人間か」、
これは人格の問題だと思っていたけど、
人間は自分で思う以上に、
周りとの間合いでできてる成分が多いんだと思う。

今わりと自信を持って目的意識もそこそこしっかりしてるはずの私が
大学に戻ってここまで無力感でいっぱいの人間に戻ったってことは、
私には大学がよほど合ってなかったってことかもしれない。


まぁ、合ってない大学が大きな肩書きになってるのは甚だ問題ではあるのだが(^^;、
ま、東大卒である以上に、私は私だから!いいんだもん。
人が美を見ているのではない。
美が人を見ているのだ。
美は常にそこにあって、
見出だされるのを待っているのだ。




お洋服でも芸術でも、
額に汗して働く人の姿でも…
何を美しいと感じるか?
私は何を美しいと感じる人間なのか?

人間性がとても表れる問いです。

私は世間で流行っているお洋服を美しいと思う人間です。

私は友達と同じものを美しいと思わなければならないと思っている人間です。

私は妻の顔に刻まれた皺を美しいと感じる人間です。

私はすべての人を美しいと思う人間です。
(「芸術家にとってすべての人は美しい」を言ったのは彫刻家のロダンです。)


その人が何を美しいと感じるか、考えるか。
それによって、その人は受動的な人か、臆病な人か、愛情豊かな人か、見えてくる。


たった一つの恐ろしくシンプルな問いでありながら、
これほど豊かに人の真実を浮かび上がらせる問いは
他には無いのではないでしょうか?

それこそが、古今東西、人が美というものに惹かれ続けてきた理由なのではないかと私は思います。

人は美が何であるかを知ることはできません。
ただ、人は美を通して天地人を知ることができます。
美を通して、この世の不思議と、そこに生きる我が身のかけがえのなさを知るのです。

…最近宝塚に対する自分の感情が、
DVとかモラハラとかそーゆーろくでもない元カレとかに対する
「何であんな男好きだったんだろ…」的なものになっております。(あ、私の元カレはDV野郎ではありません、念のため。)


蘭寿さんは好きだけど、最後の東京公演のチケットも取れんかったし、
もういいかな、と。
彼女が元気で笑顔でいてくれれば、
宝塚にいようが辞めようがトップだろうがそうでなかろうが、
何でもいいんです。
もはや親心です(笑)。


しかし…蘭乃さん退団会見。
何なんでしょうね。
本当なら宝塚の至宝と呼ばれ
100周年の要として一年間表舞台に祭り上げられてもいいような、
男役の中の男役トップ蘭寿とむは、
こんなつまんねー女のお守りをさせられて足を引っ張られるだけ引っ張られて
宝塚生活を終えるのか…。


『エリザベート』やらせてもらえるから退団延ばしましたって
正直に言うのも大概な神経だと思うし、
そもそもあんな歌ヘタなのを娘役トップにして
更にエリザベートなんかオファーする方もする方だし、
受ける方も受ける方。
全編歌のミュージカルなのに、
自分が歌ヘタな自覚もないとか(笑)
「やらなかったら一生後悔するとか(笑)

どこから突っ込めばいいの?
もう唖然。


歌がめちゃくちゃ上手い人でもあんな名作、
「私には無理です」ってビビるもんだぜ、たぶん。
てゆうか蘭乃さん憧れのオハナサマは、
再演の時そう言ったと聞いたぜ。

蘭乃さんは聞くところによると大変なヅカオタだそうだけど、
「ファンとしての気持ちを忘れない」のと
「素人の気持ちを引き摺ったままで舞台に立つ」のは別物だというのを
全く学んでないんだと思う。


蘭乃さんは舞台の怖さを知らないし知ろうともしてないし、
それが恥ずかしいことだというのもわかってない。
まるっきりお子ちゃま。


金持ちのお子ちゃまのお遊戯見に行くためにファンは金払ってんじゃねえぞゴラッ!

お金持ちのヅカオタなら宝塚の隣にあるステージスタジオに通い詰めるとかで十分じゃない(笑)?


私、以前は蘭乃さんについて良いところも見ようとして誉めてたこともある。
彼女はとりあえず身体能力的には大したものだと思う。
彼女のダンスが好きだと思う時もある。
それは、彼女の空気読まなさが良い方向に働いてる時。

バイラ!コンガ!のシーンのダンスとか、
彼女の我の強さとアフリカンな土臭い振付がマッチしてとても魅力的だった。
彼女の身体能力が凄いのは、軸を崩しても踊れちゃうところ。
基本を崩しても、筋力とかが凄いから何とか踊りとして成立してしまう。


…何が言いたいかと言うと、彼女を誉めようとしても見れば見るほど結局
舞台人としての未熟さにぶち当たるという。。
なので誉めようがないんですわ。
あんな素人を娘役トップにしたのがそもそもの間違いとしかもう言い様がねえよ…。


蘭寿さんが劇団から酷い扱いを受けて
蘭乃さんがちやほやされてる図って、
あの忌まわしき96期の一番綺麗な女の子がいじめられて入団できず、
いじめた側のお金持ちのお嬢さん達が手厚く守られた図と、
私にはそっくり同じに見える。


そんな訳で…宝塚もエンターテイメントの一つで、
私もそんなに暇じゃないので、
昔の宝塚の録画を思い出した時にのんびり見たりする程度にしようかな。


花組の『エリザベート』は行く気ないけど、
もしチケットが手に入ったら、
だいもんのルキーニだけ見に行きます。
私、2ちゃんねるの家庭板系のまとめが好きで時々読むんだけど、
世の中には凄い嫁イビリをする姑がいっぱいいるもんだなぁと思う。

いびられまくるのに耐えてきた嫁がやり返してスッキリGJな話も色々あるんだけど、そこでふと考えてしまう。
嫁をいびりまくる姑がどんなふうに生産されたか。


子供の頃から「女の子だから」という理由で
「女なんて勉強したって無駄だ」とか「早く嫁に行け」とか「女の幸せは結婚」とか言われて、
結婚したら「子供産め」云々言われて
子供産んだら「母親は夫と子供に尽くすもの」と
自分のことは全部後回しにして家事育児を生き甲斐にしても、
子供は次第に親の手を離れていく。
それを寂しがって引き留めようとしても子供は親をうっとうしく思うようになる。

自分の全てを注ぎ込んだ最愛の息子は、
自分の元から離れて自分から見れば赤の他人の女の子を一番大事にするようになる。


…いびる姑はつまり寂しいんじゃないだろうか。

寂しさのあまり嫁をいびって嫁にも息子にも嫌われて孤独に死んでいく。


…他人が決めることではないけれど、
こんなふうな女性は一生のうちいつ幸せになれというんだろう?


そして私は気付く。
他人の押し付ける常識なんて真に受けてたら一生幸せになんてなれっこない。
幸せになりたかったら、誰に何を言われても
自分の幸せは自分で決めるしかないんだ。


「あの人がこう言ったから」「世間ではこれが常識だから」なんて言い訳して幸せを遠ざけて損しても、
あの人も世間も誰も責任は取ってくれない。

可哀想な姑や可哀想な嫁を生産しても誰も幸せにはならない。
「女の子だから…」「女というものは…」「お母さんなんだから…」
そんな言葉は誰も幸せにしない。
そんなふうに人を縛る言葉なんか世の中から消えてしまえばいい。


生まれてから死ぬまで、幸せを感じながら生きていけるには
どんな言葉が必要だろう?
そう考えながら過ごしていきたいな、なんて思う。
『子供にテレビを見せるのは良くない』という説があるが…

目にかかる負担とかの話はとりあえず置いといて。

自分自身、テレビから学ぶことはすごくたくさんある。
映画やドラマで感動したり語学を学んだり
色んな情報を得たり…
学校の先生の汚い板書より(苦笑)よっぽど興味を持って学べることは多い。

なんでだろ、と思ったら、まずはとにかく「楽しい」から。
「頑張って勉強してます」感なしに情報を得られるし、印象にも残りやすい。
それと、テレビの話を旦那とか友達とかとする。
「このドラマのここのシーンのセリフが良かった」とか、
自分の思いや考えをアウトプットしたいと思ってする、
まさに主体的な学習なわけ。


なんてことを考えていると、
学ぶことと遊ぶことって元々同じなんじゃないの?と思う。

子供がテレビを見てすっごい楽しいって思うなら、
それが正解と思っていいのかな、と。

というか、世の中に「これは絶対に正しい」っていう正解がないなら、
「テレビを見せちゃいけない」とか「見せちゃいけないのに見せちゃって自分ダメだ」って考えるよりも、
「テレビを見ることを子供と自分の人生にとってのより良い糧にしよう」って考える方がハッピーじゃないかな?