その頃僕の住んでいた街では、真冬でも雪が降ることがほとんどなかった。
ただ、時としてごくたまに大雪になる日があった。
僕も後で知ったのだが、実はこの街の人たちはいい歳をした大人まで、そんな日のことを、「奇跡を起こす不思
議な日」と呼んでいたらしい。
その日、仕事帰りの僕は電車の窓から降る雪を眺めていた。
こんな光景はこの地方では珍しい。
宝石をちりばめたようなネオンの夜景に白いパウダースノーの舞う様はと
てもロマンチックなものだった。
しかし、残念ながら現実にはそんな光景を楽しんでいる場合ではなかった。
そう、この地方の交通機関は寒さにめっぽう弱いのだ。
無理もない、雪の降る事などあまり考えられていないのだから。
僕は自分の乗っている電車がいつ急停車させられるか、そればかり考えて不安になっていた。
僕は生来乗り物が苦手で、唯一乗れる乗り物が電車だったのだ。
だから今乗っているこの電車が止まってしまったら...
家のある駅まであと少し、というところで嫌な予想通り電車が停車した。
アナウンスは大雪のため停車したことと、次の駅までの運行で折り返し運転になることを告げた。
その駅は僕の降りる予定の駅の3つ手前だった。
復旧の予定もたたぬ様子に人々は駅からのタクシーの列に殺到した。
僕は仕方なく歩いて帰る決意をした。
乗り物恐怖症の性か、僕は人より歩くことに関しては苦にならないタイプだったが、さすがにその日は降り積もった雪のせいで普段のようにはいかないと感じた。
「でも、まあタクシーに乗るよりましか」
長いタクシーの行列の最後尾に並び、地獄の数分間を過ごすのに比べれば選択肢はおのずと決まっている。
僕はこの街に暮らして数年のあいだにすっかり寒さに弱くなっている自分に気づいた。
しもやけになりそうな足をひきずりながらただひたすら家をめざす。
通りでは夜なのに雪合戦をしている子供たちや、記念写真をとる酔っ払い達もいた。
「くそ、のんきなもんだぜ」
歯をガチガチいわせながら僕は呪いの言葉を吐いた。
ようやく一つ手前の駅に差し掛かった頃、近くで小さな動物の鳴き声がした。
あたりを見回すと道路に止めてある自動車の下に小さな猫がいた。
僕は決して動物嫌いではないが、かといって動物に好かれる方でもないので、いつものように通り過ぎようとし
た。
ただ、何故かその小さな泣き声が僕の耳に残る。
「寒いだろうな」
僕は思いながらもう一度その猫のいる自動車を振り返った時、僕の足元に不思議な暖かさが伝わってきた。
先ほどの猫が僕の足元でじゃれついているのだ。
僕はその暖かさで少し元気になり、しばらく猫と一緒に歩いた。
「なんだ、寒くて鳴いていたんじゃないのか」
猫は黒っぽい色をした小さな体をくねらせて、楽しそうに歩いている。
僕は時々意地悪をして猫が先を歩いているときに立ち止まったりした。
すると必ず振り返り、また僕の足元にじゃれついてくるのだ。
家が近くなったが、僕は困った、と思った。
こんなに猫になつかれたことはなかったが、しかし、この猫をどうしようか。
家にあげて面倒をみようかとも思ったが、動物を飼ったことのない僕に世話が出来るのだろうか?
あれやこれや考えながら歩いていると、僕は無意識のうちに猫を追い越していたらしい。
振り返った僕はしばらく唖然とした。
あんなに仲良く歩いていた猫がいないのである。
その夜の出来事もとうに忘れかけた数年後、僕は家庭を持ち娘が生まれた。
彼女が成長したある日、僕にこういった。
「昨日ねえ、おとうさんと雪がつもった道を一緒に歩いた夢みたよ」
「へえ、でも雪なんか見たことないだろう?」
僕は笑って彼女に言った。
「そうだよねえ。ここは雪、降らないもんね。でも二人で一緒におうちに歩いて帰ってきたの」
娘は首を傾げた。

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