またまた東京新聞から
お題を拝借しました。
今日の5面、社説欄を開くと
タイトルのような二つの見出しの記事が
ありました。
「見えないもの」を見る、の記事では
慶応大学教授の大串氏が
『インヴィジブル(見えないもの)を
どのように表現するのか、ということこそが
「芸術」の世界が腐心してきたテーマだ』
と述べている。
もうひとつの
「見たくないものを見よ」は今日の社説で
南海トラフ巨大地震について。
いつか必ず襲ってくる巨大地震に対して
現代の都市機能はあまりにも脆弱である、
という
我々にとっては「見たくはない弱点」を
ちゃんと直視しようよ、
と言った内容。
ふたつの記事に関連性は全くないのだけれど
「見えないモノを見る」ことと
「見たくないモノを見る」ことって
違うようでいて同じなのかな
と個人的に面白いな、と思ってしまったわけ。
どちらも「視覚」では見えないけれど
ヒトは「感覚」としては「視得て」いるわけで。
アートの世界は「感じる」ことを
視覚化する世界だと思うし
巨大地震がくる!ってことや
大地震が来たら
今の都市機能は実は「ヤバイ」ってことは
皆「うすうす」感じて(視得て)はいるけど
「視得ない」ことにしてるってことだよね?って。
で。
本題はここからなんですが
今日は東日本大震災から7年目の日。
テレビでは7年たっても帰れない
福島の方たちのことを報じていたけれど
どの報道もそれを
「巨大地震」のせいにしているように
感じてしまうのだけれど
そこにすごく「違和感」を「感じる」。
だって巨大地震という自然災害だけだったら
ここまで長引くことはなかったのだろうし
やはり福島第一原発が放射能を
まき散らした、ということが元凶だよね?って
思うわけで・・
そういう報道をあえてしない
(もしかしたらできない?)
ってことは
私たちに「見せたくないモノ」を見せないように
する力が働いているんだろうなって
私たちには見えないモノを「感じる」
力があると思うの。
感じることができるということは
見えないモノも見ることができるってことで
それって特別な能力でもなんでもなく
これからもっと大事になってくる能力だし
少し前までは
皆が普通に持っていた感覚だと思うわけ。
それこそ「アート」な世界の力というか
そういう感覚や能力を
もっとみんなが思い出していかなくては
いけないのではないかと。
いつまでも
都合の悪いモノ、
見せたくないモノを
見せないでいられるわけじゃない、
そこまで私たちはバカじゃないよってこと。
思い出さないとホントヤバい。
もっと自分の「感覚」を信じないと
ホント人類は滅びる。
(あたしは人類は滅びても自業自得と思う。
他の動物、猫やわんこやべこや
地球環境を巻き込むのをやめさせたい!)
そんなことをワタシに
新聞の見出しと
7年目の311の日は
気づかせてくれました。






