25年前〜阪神淡路大震災のこと。 | 杉田 水脈(すぎた みお)オフィシャルブログ

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25年前。
前日の1月16日は二回目の結婚記念日(因みに昨日は27回目でした)。ということで式を挙げた滋賀県大津市内のホテルに記念日特典で宿泊していました。
午前5時46分。激しい揺れで、ベッドの正面にあるクローゼットの扉が開いてテレビが飛び出してきました。
地震が多い東京に引っ越した友達から「揺れを感じたらすぐテレビをつけて情報確認」と言われていたので、元に戻したテレビをつけました。が、ニュースは大阪上空の映像を映し出すのみ。まだ、神戸が大変なことがわからなかったのです。
神戸の実家や西宮の職場には電話が繋がりませんでした。何が起こっているのか?とても不安になり早めにチェックアウトし、車の中のラジオからのニュースで被災地が神戸及び阪神地域であることを知りました。
翌日、主人のバイクの後ろに乗せてもらって出勤。国道171号線で伊丹市に入った辺りからガスの匂いが充満していて、「もし、火災が起こったら?」と、とても怖い思いをしました。
そのまま3日間帰宅せず、役所で対応に追われました。
それから1週間ほどしてやっと神戸の実家へ。当時父は神戸市役所の職員で、妹の原付で出勤したまま家に戻らず、連絡も取れない。妹から「余震が怖いから避難所に行こう」と言っても母が嫌がると。
実家は判定では半壊。でも、基礎(土台)が割れてしまった為、住むことが出来ず、取り壊して建て直すしかないとのこと。電気も何もない、ぐちゃぐちゃの家の一角で鉛筆と紙を渡され、「図面を描いて」と母に懇願されました。寒さに震えながら今の実家のラフ図面を描きました。
「お金も無いから、お父さんと二人で住める最低限の間取りでいいから」
思い出がいっぱい詰まった子供部屋も、大好きだった亡くなったおばあちゃんの部屋も、隠れ家だった父の書斎もない小さな家になりました。
実家の再建に際しては、積水ハウス時代の同期の仲間がたくさん助けてくれて、本当に感謝しています。
それから後はGWくらいまで、1日も休まず働きました。よく倒れなかったなと思いますが、私だけではなく、みんなそうでした。
あの時の自治体職員の底力。それを知ったことが、その後の「スーパー公務員塾」などの活動に繋がっていったのかなと。
そんなことを思い出しながら、今、山口に向かう飛行機の中✈️ちょうど神戸上空ですが、今日は雲に覆われていて見えません。
自然災害が多発する日本に於いて、阪神淡路大震災の教訓が活かされ、一人でも多くの貴重な命が救われることを願ってやみません。