「数奇な生い立ち」の最終回です。
養子にもらわれた伯父の家で、母は高校生になりました。
母は、小さい頃から絵を描くのが好きでした。
布団に隠れて手塚治虫の漫画を読んだり、模写をしていたそうです。
絵を描くことが好きなだけではなく、非常に上手だったので、色々な賞を取ったこともあるそうです。
そんな母が希望した進学先は
美術大学
ところが、養子に行った先は会社だけでなく、病院を経営する医師夫婦だったので、
母は、養父母から
医学部
に進学するようにと言われました。
養母の伯母も、当時では珍しい女性医師だったので
女性だから医師になりたくない
という言い訳は通用しません。
それでもどうしても美大に進学し、絵を描きたい母。
そんな母に、伯父は、
そんなに美大に進学したいなら、医学部に合格したら認めよう
と言ったそうです。
母はそれを聞いて、医学部を受験のために勉強をしました。
そして、めでたく 医学部に合格
美大の一次試験にも合格
ところが、美大の二次試験の日に母は家から出してもらえませんでした。
自宅で軟禁
ひどい・・・・
母は二次試験を受けさせてもらえず、夢だった美大への進学は叶いませんでした。。
当時、まだ18歳だったお嬢様育ちの母。
当時の女性が大学受験で浪人をすることは稀ですし、母は自分でお金を稼ぐことも出来ません。
結局、母は養父母の希望に従って医学部に入学することになりました。
入学した順天堂大学医学部には、同学年に女生徒が3人しかいなかったそうです。
(何と、そのうちの1人の娘さんと私が、偶然に医学部で同級生になりました)
その後、母は無事に医師免許を取得し、整形外科医局に入局。
順天堂で初めての女性の整形外科医となりました。
医局では出会いがあり、私の父となる人からのアプローチで、押しに押されて、すぐに結婚を決意。
すると、母の実家の一族から
どこの馬の骨ともわからない男と結婚させると、一族の会社も乗っ取られるかもしれない
と結婚を反対されてしまいました。
の骨とか本当に言われたりするんですね
既に医師になって働いていた母は、今回は反対されても結婚を諦めなかったため、最終的には
養子縁組み解消
そして、本家には、母の代わりとして
新しい養子が来たのでした....
自分が生まれた実家の両親と、養子に行った先。両方の大人の都合で振り回された母は、今でも
医者になりたかったわけではない
と言います
お金持ちにはお金持ちの苦労がありますね。
当時、結婚に反対しなかった伯母は、その後も母とは円満な関係で、私が子供の頃に何度か会ったことがあります。
既に経営していた病院はやめ、広島駅近くの小さな診療所で働いていた大伯母さま。
いつも私に会うと
お母さんに似ているわ
と、お人形を買ってくれたり、お小遣いをくれたのを覚えています
父と結婚してからの母は、自分で決めた道を歩いて来られたのではないかな?
子育てが終わってからの母は、1人で世界遺産ツアーに参加したり、海外でスキーをしたり楽しんでいたと思います。
そんな母は、今日、5月4日が誕生日で、78歳になりました。
お誕生日おめでとう!!!