全12話の作品の11話目。

多くの人が恐れるラス前の回。

 

でも私はこどもの頃から第11話が一番好きでした。

ミステリーやSFが好きだったのですが、謎解きや話の回収がメインとなる最終回よりももっともクライマックスを迎える最終回のひとつ前がとにかく面白いと思って観ていました。

ここ最近の私の中で忘れられない「第11話」は『Bad Buddy』です。PranとPatふたりだけのあまりにも幸福な時間をふたりの意思で終わらせ、「帰ろう」「頑張れ、相棒」という言葉で家に帰ったふたりのラストショットを観た時から1週間、最終回の直前まで泣いていました。

そしてもうひとつ。「最終回前の大きなうねり」は常套手段となりつつあり、その意味では、あえてそれをやらなかった『My School President』第11話はすごいと思っています。『My School President』はこれまでのGMMのBL作品の中でよく使われていたプロットや演出を意識的に排除したのでは、と思っています。その結果、観る側にストレスを感じさせずに毎回幸福を重ねていき、しかも飽きさせないという稀有な作品になっていたと思います。

 

しかし最終回1つ前がただ最終回を盛り上げるために用意された過剰なエピソードと、それによる主人公たちの悲観・悲しみ・絶望を描き、それに対して批判を受ける作品もあることは確かです。

では『Last Twilight』の第11話はどうだったでしょう。

私は、これぞまさに「11話」としての真価を発揮した回だったと思いました。

Aof監督がこの作品の中で伝えたいこと、視聴者に提起したいことすべてが表現されていた回だったと思うのです。

 

第10話の終わりにDayが角膜移植手術を受けられるというエピソードが入りました。そして11話予告に入っていた手術シーン。

これを観た先週、いろいろ考えました。

「角膜手術に成功する」

この時点でのこれではあまりにご都合主義ではないかと思えました。

視覚の障害がなくなること→ハッピーエンドという図式では、あまりに視覚健常者=幸福、視覚障害者=不幸、と言っているようで、それまでこの物語が描いてきたものと相違してしまいます。

でも、視覚に障害を受けた人間にとって再び見えるようになるということはやはり希望ではないか。それを「ご都合主義」といって切り捨てるわたしは何者なのだ?

この1週間、私の中ではそういう問いかけが渦巻いてました。

それらの回答がこの「11話」にあったと思います。

 

Dayの角膜移植手術は成功をしませんでした。

 

しかしこの物語のこれまでの回でも、そして手術失敗して数か月後という設定でも描かれているのはDayがこの世界でよりよく生きていくための戦いと努力です。

Day自身が心を開くことから始まり、外出をし、音声だけで映画を楽しみ、信頼できるパートナーと共にマラソンに参加し、ダンスをし、旅行に行き、そして白杖を使用することを受け入れました。見えない目の代わりに嗅覚を使って絵を描くことにも挑戦しました。

かつてDayは優秀なバドミントン選手でした。それは元々優れていた身体能力に加えて諦めない心とプライドで絶え間なく努力をしてきた結果だったのだろうと想像できます。視覚を失ってもDayはその強さで前に進もうとしています。

私たちは『Last Twilight』を観ながら、この社会が障害を持たない人を中心に構成されていることを読み取っていきます。でもその中で障害を持った人が他の感覚を総動員して生きていく姿を見ながら、では弱者とはなにか、ということも考えます。
普通と変わらない、ただ目が見えないだけで。
そんなセリフがありますが、では「普通」とはなにか。
誰かの手が必要な時はどんな人にもあり、すべての人がいつでも弱者にもなるし強者にもなる。だからこそこれは特別な人の物語ではなく、普通、つまりはすべての人への物語なのです。

事故で、病気で、または老いていくことで私たちはいつでも「弱者」と呼ばれる側に行く可能性が高くなっていきます。年齢を重ねるほどそれはとても他人事とは思えなくなります。

その時、私がその人のそばにいる人間ならどう寄り添うか。

その時、私がその側に行ったらどう生きていくか。

 

この物語では障害を持ったDayがそのことで他人に対して卑下するセリフがほとんど出てこないことが興味深いです。

反対に、Dayに寄り添うMhokが11話でこう言います。

「俺はDayに迷惑をかけているか?」と。

健常者であるMhokが新しい仕事に挑戦し、それが認められて海外での仕事を与えられるかもしれない。しかしそこに盲目のDayを連れていけないだろうし、しばらく別れてしまうことになるかもしれない。Dayにその不安や不自由、寂しさを与えることに対してMhokは謝っているのです。

これまで観てきた物語の多くが「目が見えないことであなたに迷惑をかけてごめんなさい」と登場人物に言わせてきました。それだけにこのMhokのセリフにハッとしました。

障害を持つ人間が謝ることを強いてきた物語。しかし『Last Twilight』では、彼らが謝る必要などひとつもないということを表明しているのです。
 

11話では、自分が目を離した隙にDayになにかが起こるのではないかと不安を募らせるMhokを描いてますが、「実際にDayの身に何かが起きる」または「何もなかったが不安にさせるような言動を取ったDayにMhokが怒る」など、これまた最終回前的な常套シーンを作らなかったことも本当に誠意を感じます。

不安でDayを探したけれど、ひとりでホテルの部屋を出ていたDayを温かい目で見つめるMhok。なんて優しいシーンなんだと思います。

 

 

そして愛を告白するMhokの覚悟の表情と震える声。

本当に美しいシーンで、何度見ても何故か泣いてしまいます。。。

 

 

しかし、皆さんご承知の通り、この後にDayはMhokに別れようと言うのですよね・・・。

 

そんなん言わなくたっていいじゃん!「嘘つかんといて!」「わかったごめんね!」それでいいじゃん。それでまたふたりで仕切り直して仲良くやっていけばいいじゃん!!

 

過去の私なら絶対にそう思った。

でもね、Aof監督が視聴者に伝えたいこと、それは「時間」についてなのだと思うのですよ。

恋から関係が始まっていきます。でもそれが永続的な関係になっていくためにはお互いそれぞれの自立が必要なのだとこの物語は語っています。目が見えないDayが、過去の刑により仕事を与えられなかったMhokが、それぞれ自立して人生をより良く生きていくこと。その上でないと自分にもパートナーにも愛情を与えることができないのではということだと思います。それは簡単なことではなく、それに時間を要したとしてもそれでも彼らが獲得しないといけないものだとこの物語は語っているのです。

『1000stars』のティアン(Mix)が事故で亡くなったトーファンに対する後悔と感傷で過疎の村でボランティア講師をするだけでなく、ちゃんと学業を修め、教師になるための勉強をして資格を取り、その上で村に戻って隊長に向き合おうとするように。

『Bad Buddy』のPranとPatが親の庇護下にいる間は親の気持ちを尊重し、仕事によって自立したのちに二人の関係をオープンにしていくように。

Aof監督のテーマは、時間をかけて自立したのちに成熟させていく人生の物語なのだと思います。

 

だからこそAof監督がこの作品の中で「恋愛における嫉妬」に一切時間を割いていないことについても、私はとても賞賛しています。

Dayがかつて片思いしていたAugustの行為について、Mhokは闇雲に嫉妬をせず、まずはAugustの出方を観察し、そしてDayの気持ちを尊重します。

Mhokの元彼女で、その後も何かあるとお互いに助け合う関係のPorjaiについて、Dayは嫉妬することなく、信頼さえしています。

物語が無駄な嫉妬の感情に揺らされることがなかったことが、私には非常に心地良かったです。

 
11話ではやっぱりいっぱい泣いちゃったけれど、でも最終回を、MhokとDayの幸せを、彼らに関わるDayの兄NightとPorjai、DayとNightの母親の幸せを待ちながら心して観ようと思います。